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欧州の火薬庫といわれるバルカン半島

 

国境線が消えようとしていた欧州。

国境線が現れようとしていたソ連。

1990年代初頭の激動するユーラシア大陸。

バルカン半島の一角、ユーゴスラビア連邦はそのうねりのただ中にあった。

そこでは、TVドラマや映画でしか見たことのなかった日本の戦中戦後のような光景が、私の、まさに目の前で繰り広げられていた。

極限まで追い詰められた人々が、時折見せる麗しさは、

神の似姿であるかのように思えた。

 

 

 

1. “友愛と団結”橋のタチアナ

 

 警戒を告げるサイレンと同じ音がサラエボ市内に響く。正午を知らせた。いよいよだ。

「皆とはこれが最後・・・いや、そうあって欲しくない・・・でも家族と一緒になれる・・・いや、家族は無事だろうか?・・・家はあるのだろうか?・・・」。

タチアナ マルコビッチの心の中は、別れと再会、絶望と希望のはざまで混乱を極めていた。物語の舞台は“友愛と団結”という名の橋。皮肉なのか・・・粋な計らいなのか・・・。

 

 1995年5月2日、サラエボ西部グルバビッツァ地区。ムスリム勢力支配地に取り残された“脱出希望”のセルビア人と、そのムスリム勢力支配地に“帰りたい”とするセルビア人の数が一致したこの日、5組の“住民の交換”が行われた。タチアナは“帰りたかった”。

「今日まで生きていられるとは思わなかった。何のための戦争なのか分からなかった。第一、どうしてこんな事になったのかも分からなかった・・・皆、何の問題も無く生活していたのに・・・」。と、タチアナはあの頃を回顧していた。

 

 1992年3月、ユーゴスラビア連邦からのボスニア共和国独立を問う国民投票直後、TVニュースはボスニアのあちこちでの銃撃事件をメインで伝えるようになった。武装兵士や戦車が、やたら街にあふれ、通りにはバリケードを築き始めた。夜間外出禁止令がしかれた。いやな予感がし始めた。国外の知人を頼り、疎開する友人知人もいたが「そこまで考えなくても・・・」。と、いつもどおり職場に行った日の午後、ミリヤツカ川が渡れなくなった。川向こうの歩いてわずか数分の自宅が敵陣地になり、帰れなくなった。

 同僚宅にやっかいになることにした。電気、ガス、水道が止まり、郵便、電話も市内でさえ通じなくなった。滞る援助物資、高価なヤミ流品。雑草を野菜がわりに、木の葉をお茶がわりに。暖房用の薪が無くなり、街路樹の根っこまでもほじくり返し、家具やピアノまでを解体して燃やし、煮炊きした。「Stone age !(石器時代よ!)」。吐き捨てるように繰り返した。

 

 それまでサラエボは、ムスリム人が人口で圧倒(約30万人)してはいたが、セルビア人(約6万人)、クロアチア人(約2万人)が混在する国際都市だった。

 ’92年4月、内戦勃発。ムスリム勢力主導のボスニア政府がサラエボを牛耳ると、セルビア人勢力がサラエボの包囲を始めた。多くのセルビア人、クロアチア人が他の地域に逃れ始めたが、ボスニア政府はその脱出を厳しく規制するようになった。“民族分割に抵抗する”という対外的イメージ作りのため・・・。セルビア人勢力の包囲する中にセルビア人住民を残す事での“人質的利用のため・・・。

 

 ’94年3月、ボスニア政府とセルビア人勢力との合意により、ミリヤツカ川に架かる何本かの橋が再開通。その年の夏には48時間以内の“一時帰宅”が可能となった。また、それぞれの民族構成が変わらぬよう“脱出組”と“帰宅組”の人数が一致した時のみ“住民の交換”が可能にもなった。

 

 「帰り支度など必要なかった。何も持っていなかったから・・・。別れを惜しむ事もしたくなかった・・・再会できると信じたかったから」。こんな状況になった事、何がそうさせたのか・・・。“帰宅許可通知”を受け取ってから今日まで、それだけが悔しく、情けなかった。

 あれから、ちょうど3年。栗色だった巻き毛は灰色に。時折、唇を噛む癖。やつれ、細った肩、首筋、頬。「今となっては誰を責めても仕方ない事・・・」。だが、橋を渡ればムスリム人勢力支配地。“セルビア人勢力がセルビア人であるタチアナに銃口を向け、銃爪をひくかもしれない”という超現実が待つ。「とにかく生きて、家族に会いたい」。

 

 集合場所は、橋のたもとのガソリンスタンド“跡”。うず高く積まれた土のうの内にセルビア軍と国連軍のチェックポイント。さらにそれを覆う様にコンクリートのバリケード、そして廃墟・・・。かつて、毎日通っていた道は変わり果てていた。ただ、小鳥のさえずりだけが毒々しい。

「必ず戦争は終わる・・・必ず、また会える・・・」。

「戦争に負けないで・・・」。

見送りに来た同僚達と鉄の柵越しに左右の頬を3回合わせるこの国の挨拶をし終える。

「タチアナ マルコビッチさんですね?」。

2人の国連兵に付き添われ、歩き出した。何度も振り返りながら“友愛と団結”橋に消えて行った。

 

 

 

2. バルダウ川のほとりで

 

 旧ユーゴスラビア連邦、マケドニア共和国の首都スコピエを流れるバルダウ川は、この街を“左岸の旧市街”と“右岸の新市街”の2つに分ける。かつてのオスマントルコ支配下に出来たこの左岸旧市街は、’80年代からアルバニア人が大量に流入し始め、古くから住むマケドニア人の多くは、右岸新市街へ移る事になる。’91年9月独立後、彼ら少数民族の主張。母国、周辺国との絡みなど、この川を挟んでの緊張が高まっている。旧ユーゴスラビアのもう一つの火種でもある。更に、旧ユーゴスラビア連邦の中では最貧の共和国。一番の産業は“出稼ぎ”。残りの殆どを農業に依存し、失業率は28%(’93年当時)とも言われる。国境警備兵たる者が、護身用短銃一丁さえ携行できないこの国の将来とはいかに。

 

 早朝の奇妙な通勤ラッシュに気付いたのは、“新”と“旧”を結ぶ橋のたもとに宿をとった翌朝からだ。

私の部屋の窓の下を二人三脚よろしく、パンパンに詰め込んだ手提げ袋 “3つを2人で持ち” 旧市街へ向かう人々。

「おはようっ!中国人?」。

「おはよう!日本人ですよ。大きな荷物で・・・どちらまで?」。

「旧市街よ・・・いらっしゃいよ!」。

「!?」。

身支度もそこそこ、慌ててその旧市街までの人の波に体をあずける。朝日を背に、河畔に沿って足早に歩く人、人、人・・・。15世紀に作られたという石の橋を渡ると、そこから旧市街。

 乾いた風、石畳のバザールが続くと青果市場に突き当たる。てんでに荷をほどく。彼女らはそこの露天商だったのだ。それにしても、どこでどうやって仕入れたのか、おそらくヤミ流れなのだろう。ちぐはぐな商品ばかりを並べている。我々が”月イチ”で楽しむフリーマーケットの方がよほどましだが、とにかくなんとか働こうとしている。

 

 以前から、市場の喧噪が好きだった。市場を探す彷徨のようなものが好きだった。新しい街に着くと、まず地図を買い、真っ先に行ったものだった。市場を見るとその土地の庶民的な生活が見て取れる。衣食住に必要なあらゆる物が、ごちゃ混ぜフルーツポンチ状態のこの空間。農業国なので、野菜、果物、穀物が中心となる。特にピーマン、セロリの匂いが朝のひんやりした空気にミックスして心地よい。

「日本人か?腹が減ってるだろ?喰えよ・・・もう一個喰えよ・・・持ってけよ・・・」。

本当は惜しいと思っているくせに・・・。リンゴ、スイカ、トウモロコシなどを気前よく差し出す。東洋人が珍しいのだろう、気さくな人達ばかりだ。と、ここまでは他の街と同じパターン。しかし・・・初めて見る光景・・・働く少女達。

「写真を送ってあげるから、住所を書いてごらん」。

「・・・」。

字が書けない・・・4~5才に見えるが・・・。近くにいた青年に代筆してもらった。

 彼女達は、日本のスーパーやコンビニでただでくれるあのポリ袋を売り歩く。8月の炎天下、子供には重かろうその分厚い束を抱え、声を張り上げ人混みの路地をすり抜ける。買い物客の大人達を見上げ「買って!」。家族を助けるためか、自分の小遣いかせぎか、いくらにもならぬその仕事を遠まきにみていると、可愛いやら哀れやら・・・。しかし、おや? 結構売れている。結構稼いでいる。いいぞ、いいぞ!そのポケットは小銭でじゃらじゃら言っている。

「パパとママは?」。

「あっち・・・」。

「おてつだい?」。

「うん」。

 彼女達は朝一番、1枚1デナーリのポリ袋を100枚一束ほど街の雑貨屋で“仕入れ”、市場に来て、それを1枚2デナーリで売る。1日中、どう頑張っても50~70枚位しか売れないが、子供らしい的を射た商売だ。当時(’93年)1デナーリ約4円だった。1日60デナーリの儲けとしても約240円。チェバプチッチ(肉団子)を挟んだハンバーガー1個買えるかどうかだが、ポケットにある程度の小銭が貯まる度に、親元に届けに行く時の得意げな表情は微笑ましかった。子供は、いつでもどこでも純粋だ。だが、どうしてこんな子供までが働かなくちゃならない!独立の歓喜に浸っている場合でもない現実ではある。

 

 マケドニアを離れる日、空港へは回り道をしてバルダウ河畔を走った。“手提げ袋3つを2人で持ち”旧市街へ向かう人々。乾いた風、石畳の旧市街。市場の喧噪。何年も前から、ずっと続いていたであろうこの光景が、これからもこうあり続けてほしいこの光景が、いとおしく思えた。「戦争だけは絶対によくない!」タクシーの窓から呟いた。

 

 

 

3. 通訳カタリーナと

 

「ねぇ、ザグレブの街はどう?気に入った?」

「駅前広場と共和国広場から北の旧市街は好きだけど、他は、あまり・・・カタリーナきみは?」

「好きになれないわね、首都は騒々しくて落ち着かない。故郷のブコバルの方がいい。皆、のほほんとしているし、静かで奇麗なところだったわ。行ったことある?」

「まだ・・・話には色々聞いてるけど。そこにはもう帰れないらしいね?友人にも会えないんだろ?」

「もう会えないね!ウィーンかブダペストならランデブー出来るけど、手紙や電話も通じないから約束もできない」

「大事なメッセージがあれば、ボクが代わりに持って行こうか?」

「Hvala(ファラ/ありがとう)、でもマジャルスカ(ハンガリー)まで出れば電話出来るから・・・。すごく混むらしいわよ、そういうクロアチア人で。あっ、この事をルポにしたら?面白いんじゃない?」

「どうかなぁ?ところで、そのブコバルの住人はセルビア人、クロアチア人、ムスリム人がそれぞれ1/3ずつって聞いたけど」

「あら、そうだったの?初めて聞いた」

「えっ?」

「そんなの誰も気にしていないと思う。出身地を聞かれればクロアチアとかセルビアとか・・・」

「友人と一緒にいて分からなかった?例えばクリスマス。カトリックでは12月25日、オーソドクスでは1月7日、ムスリムには勿論無いけど」

「その1ヶ月くらいの季節はね、街はお祝い一色で入り混じっていた。確かに宗教は3つあるけど、信者かどうかは別問題じゃない?お祈りや、式次は知ってはいるけど、のんびりしたい日曜日も朝早く起きてミサ・・・なんてのはねぇ。特に若い人は・・・日本人だってそうじゃない?」

「恋人達がね、12月24日の夜は教会に行って、そして1月1日になると今度は神社に行く。聖バレンチノの日も“祝う”。13日の金曜日は何とも思ってないけど、釈迦の死という意味の“Butsu-metsu Day”は気にする」

「でしょ?人間なんて、どこでどんな生活をしていても基本的には同じだと思う。言葉、文字、宗教の違いを超える何かがあると思う。ああ、なんて言う?英語が出てこない・・・夫婦の・・・親友の・・・人と人とを結んでいる何か・・・」

「(絆?)Ties ? Bonds? Contact? Tuch? うん、わかるよ。でも、トゥジュマン(注1)、イゼトベーゴビッチ(注2)、カラジッチ(注3)の3人の間には何も無いのかなぁ?」

「見ての通り。ヤスーシ アカーシ(注4)も大変ね」

 

(注1)トゥジュマン      クロアチア大統領

(注2)イゼトベーゴビッチ   ボスニア大統領

(注3)カラジッチ       セルビア大統領

(注4)ヤスーシ アカーシ   明石康 旧ユーゴスラビア問題 

                担当国連事務総長特別代表

 

 

 

4.マルコの場合

 

’92年4月、内戦勃発当時のセルビア勢力は自らのニュース発信基地を持っていなかった。あわててアテネ、ブダペスト等、外国の基地と契約を結ぶが時遅し。クロアチア発“セルビア悪玉論”が世界を駆け巡り、メディア戦ではすでに敗北していた。

 民族、宗教など文化が混在すると言われたボスニアを、それぞれに分割しようとするものだから、行き場を失ったセルビア人難民も多いということは当然、無視された。そんな彼等に会おうと思った。

 

 コビロボ難民センターは、首都ベオグラード市街地から僅か30km位にもかかわらず、地平線が見えてしまうような畑中にあった。広い庭には洗濯物が万国旗の如くはためく。庭の北側にある宿舎の入り口には “Welcome to Ms Ogata” の看板。UNHCRの緒方貞子氏が来訪した時のものをそのままにしてあるのだろう。西側には食堂と家畜の飼育小屋。南側には事務所と倉庫、さらに野菜畑。“とりあえず”の衣食住は確保出来ているが・・・。

 暇な毎日、最低限の食事、プライバシーの無い部屋。チェスに興じる男、編み物にふける女、近くの水路で魚釣りをする少年・・・。「市街地にある難民センターのヤツらはいい。ディスコ、映画、コンサート・・・学校にも毎日行けるし・・・見ろよ、この生活を・・・なにも好きこのんでやってるんじゃねぇよ、これしかする事がネェんだよ!」文句をブーブー言う。

 

 「Hi ! I'm Marko・・・I speak a little English・・・」

マルコという女の子は、たどたどしい英語ながら陽気な表情で私の訪問を歓迎してくれた。頼みもしないのに、ガイド役まで買って出てくれた。「最初になにしたい? ランチ? 見学? あっ、その部屋入っちゃダメ。洗濯場。おばさん達は写真を撮られるのすごくイヤがる・・・」。何なんだ、この子の陽気さは? 今まで何人も難民の子らを見て来たが、その都度思う。訪問客など滅多に来ない所に、見慣れぬ東洋人が来ればそれは面白がるだろう。まあ、心を開いてくれるという意味では取材がしやすい。

 ひとしきりし、庭に1台のバスが着くと、マルコは私の事などそっちのけで駆け出した。一人の青年がステップを降りて来ると抱き合った。どうやらこの難民センターで知り合って恋人同士になったらしい、と周りの人が教えてくれた。“難民センターの恋”か、いい、いい。ちょっといかがわしいが、遠くから望遠レンズで覗いてやれ。暇つぶしの本を図書館かどこかで借りて来てやる約束でもしていたのだろう。互いに何冊もの本を抱え肩を並べて歩く姿など、どことなくフォトジェニックでフィルム1本撮ってしまった。

 

 マルコとボーイフレンドのゾランは2人共、ボスニア西部ゼニツァの出身。内戦勃発と同時に親の意志でここに疎開して来た。年寄りや子供ばかり160人程が集まるこの難民センターに、話の合う世代など5~6人。出身地が同じという精神的支柱のようなものも手伝ってか、子の2人の巡り会いは分かるような気がする。

 2人は時々(学校へ行ける日)市街地でのデートを楽しむ以外は、ほとんどの時間をここの庭に寝転んで過ごすという。たわいない話題ばかりだが「将来の事を、しばしば考える」と、マルコ。それしか考える事が無い、そうしないとやるせない。

 「将来の夢? ファッションデザイナー。でも、とにかくここを出たい。でも行く所が無い。アパートを借りるにも働かなくちゃ。働くには学校を卒業しなくちゃ。その学校だって毎日じゃないから卒業もいつになるか・・・あっそうだ、英語の宿題手伝って!」。

また、ゾランまで調子にのって。

「ああ、それが終わったらオレにはKARATEを教えろよ・・・」。

これ、これ! この感覚! いつもこんな調子なんだろうか? 途方に暮れる大人達にも、何も分からぬ子供達にも、この2人が何かしら影響を与えているのだろうと思った。

 

 珍しい日本人、ジャーナリストらしくない格好(長髪、ジーパン、コンバース)の私に親近感を持ったのか、空手だの、柔道だの、相撲だの大騒ぎしていると職員数人が「市街地へ行く最後のバスが出るわよ」と呆れ顔だ。

 難民センターらしからぬ光景を見せつけられ、取材そっちのけで彼等と遊んでしまった。ま、それはそれで良いだろう。マルコもゾランも私が去れば喜怒哀楽があるには違いないが、生活の場や状況が変わってもその陽気さを持ち続けて欲しいと願わずにはいられなかった。

 

 

 

5. リリアナ ミラシノビッチのこと

 

 「あつかましいお願いだけど、私の娘に会ってほしいの・・・そして、日本へ連れて行ってほしいの・・・治らないのよ、病気が、ずっと・・・戦争で・・・」。

 

 当時、滞在していたホテルのレストランのウエイトレス、リリアナが私の部屋をノックしたのは、北ボスニアでの取材を終え、拠点にしていたこのバニャ・ルーカを離れる前夜の事だった。23時になろうとしていた。

 バニャ・ルーカ  ー 流れのほとりの憩いの場所 ー という意味を持つ人口19万人程のこの街は、セルビア勢力の完全な支配下であるにもかかわらず、今だに少数派のクロアチア人、ムスリム人が共存していると聞きつけ、やっとの思いでたどり着いた。

 美しい街並みだ。広い通り。街路樹は春の訪れと共に青々とおおい繁る。その舗道には、人々がペットと共に夕暮れの散歩を楽しむ姿。洒落たカフェバーやレストランが軒を並べ、ロックの強いリズムの中、若者達で賑わっていた。そんな活気に満ちた街でも、満足な食事のとれるレストランは1軒として無かった。内戦下、食材不足、電力不足でまともな調理が出来ないためだろう。そんな理由から毎食ここ“ホテル・ボスナ”のレストランの“時価メニュー”に頼る事になった。ここで、リリアナと出会った。

 

 同じセルビア人である夫は戦死したとも言う。しかも、クロアチア領内で。というのは・・・セルビア正規軍兵士としてクロアチアと対峙する最前線に就いた。クロアチアの攻勢に負け、投降した。捕虜となれば殺され、生還したければクロアチア兵として前線に就かねばならない。生還したかったのだろう。セルビア人でありながら、クロアチア兵としてセルビア勢力との最前線に就いた。つまり、投降セルビア兵と正規軍セルビア兵が銃口を向けあった。リリアナの夫は、数日前まで所属していた正規軍セルビア兵に照準器を合せられるはずもない。一方、正規軍セルビア兵は対峙するクロアチア軍にセルビア人がいる事を知る術もない。セルビア人がセルビア人を殺した。3民族の勢力圏がめまぐるしく入れ替わる中で友人隣人のみならず、家族親戚までをもが一夜にして敵味方、泥沼の関係になる。これがボスニア内戦。セルビアとクロアチアのみならず、クロアチアとムスリムしかり、ムスリムとセルビアしかり。

 

 バニャ・ルーカには病院が3ヶ所、国際赤十字の診療所、UNHCRの配給所があったはずだ。それら全てが戦争で、ままならないと言う。外国人が予備の現金や常備薬を施しただけで解決するレベルの問題ではなかった。

今までに、西側ジャーナリストが難民の孤児を養子に迎えたり、ミス・サラエボと結婚し国外へ連れ出したといった話しは聞いた事があった。まさか、自分の目の前にも国外脱出を考えている人が現れたとは・・・。

 公的機関がすべき事なのではないか?一人の人間として何も出来ないのか?ジャーナリストとしてやるべき事があるのではないか?ボスニア・ヘルツェゴビナに限らす、世界中の紛争地が抱えるやりきれない現実が叩き付けられた(今、今すぐに、何かしてやれないのか・・・?)。

  ベオグラードに戻ってから、日本に戻ってから薬を送るという約束と、戦争を憎む、それ以外何も思いつかなかった。「このまま日本に帰るのか?」そんな自分の無力さが露になった。

 

「バカな頼みよね、こんな事・・・でも、どうしろと・・・」。

セルビア語だったので、よく分からなかったが、たぶんそういう事をつぶやいたのだと思う。

「必ず薬を送る。そして、あなたとお嬢様のこと、この国の人々の事は絶対に忘れない」。

「アストニンH をお願い」。

 毎食後差し出した、US$1のピン札のチップを受け取る時の、あの微笑みとは別人のようにさせてしまった。

 

 帰国後、友人知人の医師、看護師らの協力で、副作用の無さそうな薬を数種類集めた。輸送途中での略奪も考慮し小口で数回に分け、速達、書留、受け取り通知で送った。宛先国は、BOSNA I HERCEGOVINA(ボスニア ヘルツェゴビナ)とは書かず、Republike Srpske YUGOSLAVIA(ユーゴスラビア セルビア人共和国)とした。

 受け取り通知は、1度、来たきりだった。

 

 

 

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1994年2月  セルビア勢力、サラエボ青空市場砲撃、 

          68人死亡。

     3月  米軍機がセルビア勢力機撃墜、

         NATO軍初の武力行使。

     4月  NATO軍、セルビア勢力支配地域へ空爆。   

         「必要なら再空爆」と、米国務長官。

 

この春のキーワードは“セルビア悪玉論”。

しかし、各勢力支配地図を見るとクロアチア勢力とムスリム勢力に包囲された、陸の孤島での生活を強いられているのはセルビア人でしかなかった。そんな彼等に会いたいと思った。

 

 

1. ベオグラード エクスプレス

 

 新ユーゴスラビア連邦(セルビア、モンテネグロ両共和国で構成)の首都ベオグラードへは、妙な乗り合い白タクで入った。実はこれが正解だった。

 国連による新ユーゴへの経済制裁で、国内線を除き全てのベオグラード空港乗り入れ便はフライト キャンセル。隣国から陸路による入国しか出来なかった。最短のハンガリー ブダペスト空港に降り立った私は、そこから先の足が不安だった。クック時刻表によれば、1日2本の列車が“ベオグラード エクスプレス”なる名前で走ってはいるが、政情がら頼りにはならなかったし、東欧の列車は1~2時間は平気で遅れる。いや、そんなの遅れたうちに入らないし、またその切符を買い、予約し、料金を払うという駅での煩わしさも考えただけで疲れる。夜行バスもあったが、翌日の怠さを考えるとこれもまた憂鬱だった。不確実性に期待をつなぐということがまかり通っているこの国には何回来ても今だに慣れない。そんな気持ちのまま到着ロビーに降り立てば“For BEOGRAD”と書かれたプラカードを振りかざす者が5~6人はいただろうか。

「ベオグラードまで行きたいんだけど・・・」。

「OK! OK! 乗んな! $35・・・16時頃には着くさ・・・」。

「これは何? バス? タクシー?」。

「いや、プライベート バンだ!」。

約3500円。列車と同じくらいの料金で、4時間も早く着くのは本当かなあ?ちょっとインチキ臭かったが、お願いする事にした。

 

 帰り便の予約再確認やら、両替やらに追われているうちに、バンの出発時間になった。“マツダのボンゴ マルチバン 右ハンドル” 日本車に乗れるという事で超安心(?)出来たが、この妙なプライベート バンなるものがまだよく分からなかった。

「外貨を稼ぐには、これが一番手っ取り早い。大きいバンを持っているヤツらは皆、この仕事をやってるさ」。

と、運転手。ハンガリーのマルチプル ビザ(何回でも出入国可能)を取り、ブダペスト空港とベオグラード中央駅間、500kmを往復。週末の2~3日、この仕事をするだけで1週間分の稼ぎになるんだそうだ。車の消耗も激しいだろうに、微笑みながら彼は「MADE IN JAPAN !」と親指を立てた。

 

 ’93年夏、同じセルビア共和国のコソボ自治州を取材した時のインフレの凄まじさといったら、それはそれは大変なものだった。国連の対ユーゴ禁輸決議から1年3ヶ月が経ち、経済構造は決定的に崩壊し、通過ディナールは大暴落し紙屑同然だった。市街地にあふれる警察官の目を盗み見ながら、裏通りのヤミ取引で両替をしてみたら、わずか$20が1億6000万ディナール!「1週間、フルコースのディナーだね!」“彼”に冷やかされる。もっと驚いたのは、いや、バカにされているのかと思った。「トイレットペーパーが買えないから、これで用を足しなさいっ!」と言わんばかりに、デノミ後の旧紙幣が山のように積んであったのだ!ホテルのトイレに、である。紙屑同然とはいえ、お金をトイレットペーパー代わりにするのは、いくら何でも・・・。さらに、半年後にはインフレ率9億7000万%! 1時間に1% インフレが進み、ついに500億ディナール札というゼロが10個も並ぶ紙幣を発行した有様だ。私には経験は無いが、レストランに入った時と出る時では値段が変わっているとか・・・。

 あれから約9ヶ月後、首都ベオグラードを訪れるのは初めてだ。

 

 旧ユーゴスラビア連邦の首都ベオグラード。首都といえば、どこの国でも自由な雰囲気、経済的豊かさの象徴であるはずなのだが、むしろ独立したクロアチアの首都ザグレブや、スロベニアの首都リュブリャナの方がよほど豊かで自由だった。それは距離的に西欧に近い事や歴史的背景もあるのだろうが、制裁にあえいでいるという意味を差し引いたとしても、何かあらいがいようも無いものが何百年も前からよどんでいるかのように感じた。帝国に蹂躙(じゅうりん)され、大国の思惑に翻弄され続けた600年の歴史が今日まで尾を引いているかのように思えた。それが市民の表情、街全体の雰囲気にまで表れているのではないか?そんな、この街の第一印象だった。

 

 

 

2. 命の回廊

 

 ついに、ボスニアに入る日が来た。7:00発のバスに間に合うよう5:30に起床。私は必ず毎日朝食は摂るのだが、この日はホテルでの朝食は時間が合わず、昨晩ウエイトレスに頼み込んでランチボックスを作っておいてもらった。それをリュックのとまくちに放り込み、すぐにチェックアウト。トランバイ(路面電車)の始発さえ走っていない、日の出前の駅まで約3kmの道をひたすら歩く。カメラバッグとリュックが肩に食い込む。タクシーを呼ばなかったことを後悔しながら、ヒッチハイクでもしてやろうと振り返りながら歩くと、始発のトランバイが来た。手を挙げたのに止まる気配がなかったので、市民と同じように助走をつけ飛び乗った。

 日の出前だというのに、バスターミナルだけは活気に満ちている。特に私の乗るバニャ・ルーカ行きのバスの周りは乗客と見送りでごった返している。それもそのはず、このバスはセルビア人にとって“命の回廊”と呼ばれているのだ。

 

 国際社会から悪者呼ばわりされているセルビア人ではあるが、クロアチア勢力とムスリム勢力に包囲されている北ボスニアのセルビア人にとっては、外界へ通ずる唯一の生命線だ。途中、危険な地域も通過しなければならないが、国連による経済制裁下、生活物資を確保するため首都ベオグラードまで買い出しにやって来た人々、その逆に、北ボスニア内の親戚、友人知人のために届けに行く人々。また、休暇明けの兵士やジャーナリストまでもが、1日たった2本のこのバスに殺到する。

 乗車券が買えた私はラッキーらしい。買えなかった人々にとっては一大事だ。「なんとか乗せてくれ!」と運転手や車掌に食い下がっている。そんな写真を撮っていると、

「あなたもバニャ・ルーカまで行かれるのですか?」。

と、1人の青年が私に話しかけて来た。

「どうしてものお願いなんです。この荷物を運んでもらいたいのです。中身は食品と薬です。ガールフレンドとその家族のためです。私はクロアチア人なので、今は行けないので・・・」。

名前はヨシップ、21才、ベオグラード大学の学生。彼の必死の訴えを聞いているうちに、持って行ってあげようと思った。

「有り難うございます。あぁ、よかった。ではこれから彼女のところへ電話して、バスターミナルであなたの事を待つように伝えます」。

感じのいい青年だったので、私の頼み事も聞いてくれるだろうと思った。

「国境までなら行けるだろ?もっと話を聞かせてくれない?乗車券は私がなんとかするから・・・」。

東欧らしい、ぎゅうぎゅう詰めのバスは、東欧らしくなく定刻で出発した。

 

 バスは、ベオグラード~ノビ・サド間の国道75号線を突っ走る。素晴らしい道路だ。路肩、走行車線、中央分離帯、舗装状態全てに申し分無い。有利用道路にしてもよいくらいだが、単なる国道だ。どこかの自動車大国とはえらい違いだ。途中、大型トラックの隊列に追いつく。10台は連なっているだろうか、壮観だ。白色塗装に黒文字で“UN”と書いてある。国連軍のコンボイだ。私たちと同じルートでボスニアのどこかの街に食料援助に向かうのだろう。それをじっと見ていたヨシップ君が話し始めた。

「誤解してほしくないんだけど・・・ミスター アカシは、フェアーな考えで良い仕事をしていると思います。しかし、国連の経済制裁には疑問を感じます。まだ何の効果も出ていない。指導者に圧力をかけるなら、他の方法をとってほしい。問題解決まで制裁が続くなら、一般市民の生活は大変ですよ。あなたは、それをどう思いますか?」。

クロアチア人らしくない発言だが、セルビア人であるガールフレンドと家族を思いやっての事だろう。確かにヨシップ君の言う通りで、市民生活を苦しめるだけの経済制裁が紛争解決に結びついたという事例は無いと思う。アパルトヘイト政策下の南アフリカ、アフガン侵攻後のソ連、湾岸戦争後のイラクなど・・・。反政府活動を起こさせるきっかけ作りという見方をする識者もいるが、今のセルビア人には無理がある。それどころか、最近に至っては「戦い貫くために」と言わんばかりにボスニアのセルビア人指導者カラジッチ氏らは“国民総動員令”を発する有様だ。

「国際社会による幾つもの和平案の全てが、なんの役にも立たず、むしろ全く逆効果になっている滅茶苦茶な状態。もしかすると、この内戦をドロ沼化させた一番の原因は、国際社会の対応ミスだったのではないか?と思えてならない」。

「責任問題ではありませんが、対応ミスだと思います」。

「じゃあ、なぜ、ミスター アカシは良い仕事をしてるわけ?君はさっきそう言った。この春、彼はボスニアのセルビア勢力に対し、NATO軍による空爆にゴーサインを出した、2度も。日本人の評判は悪いと思っていた」。

「いや、彼は最後の最後まで空爆だけは拒んだ。3勢力それぞれの意見を、飛び回って聞いている。重要な事です。ボスニア問題の解決は、話し合いによる分割しかないのですから。それよりも問題なのはクリントンですよ。NATO軍を仕切っているクリントンですよ。彼はやりたくてしょうがないんだ。どうかしてる!」

ヨシップ君の言葉に、周囲の乗客が私の方を向いて大きくうなずく。

「そうだ!アカシはいい!クリントンはクレイジーだ!ああ、そうだ!どうかしてる!」

 

 それにしても、ヨシップ君はクロアチア人らしくない発言をする。

「出生地がクロアチアだから、国籍もクロアチアですよ。『両親の帰属も考慮して・・・』という人もいますけど。セルビア人もムスリム人も敵視してるわけではありません。クロアチア勢力だってスジが通っているわけではありませんから。知っていると思いますが“クライナ”というクロアチア領内セルビア人居住区がある。クロアチアが独立したとき、クライナの事は無視していましたから。いや、今でも“クロアチア化”しようとしていますから」。

 旧ユーゴの連邦崩壊は、スロベニアとクロアチアの独立宣言がきっかけとなった。1991年6月25日の事だ。スロベニアの独立は理解出来た。経済的にも西側並みだし、ほぼ単一民族だった。しかし、クロアチアの独立は“クライナ”の解釈の仕方が曖昧なまま、国家承認された。旧ユーゴ内戦の発端は、ここにあったと思う。血は、この時すでに流れていたのだろう。この問題にもっと慎重に取り組んでいたなら、このボスニア内戦の流れも今とは違うものになっていたかもしれない。

 

 バスは国連軍のコンボイを追い越し、クズミンという街で国道を降り、市道を南下する。素晴らしい大平原だ。TV映像や写真で見るのと実際肉眼で見るのとでは、遠近感が全然違う。“目からウロコが落ちる”というのはこのことかと思った。

 ここボイボジナ自治州は、セルビアとハンガリーの中間にある。ハンガリー人も人口の30%を占める。バルカン風の白い壁、オレンジ色の屋根。ハンガリー風の尖った屋根の家々やセルビア正教会、カトリック教会等が混在する。異文化の接点というのはこういうのだろうと感慨深いが、土地の人にとっては『だから何?』といったところか?

「見て下さいよ、どうです、この大穀倉地帯は。何があっても食料だけは困りませんよ」。

と、ヨシップ君。ドナウ川、サバ川、ドリナ川に挟まれた肥沃な大地、何世紀も前からの農業国が、そうせせら笑っているかのようにも聞こえた。経済制裁なんて屁とも思っちゃいまい。

 

 そんな話をしたり、考え事をしたりしているうちに、ヨシップ君との別れが近付いて来た。ボスニアとの国境、ドリナ川に架かるラチャ鉄橋が目前だ。セルビア側の検問所でヨシップ君は下車しなければならない。降りたヨシップ君は、いきなり武装兵士に詰め寄られ、車中の私に目配せをする。

「何をしにここまで? これからどこへ?」。

そんな事を言われたのだろう。彼をフォローしなければと、すかさずバスを降り取材許可証を見せながら、

「彼は私のベオグラードでの通訳で・・・ここまでガイドしてもらっただけで・・・ここでUターンです。ベオグラード行きのバスが来るまで、ここで待たせてやって下さい」。

一件落着だ。

「ブルチコの街を通過する時には、危険があるかもしれません。他は大丈夫だと思います。ベオグラードに戻ったら、また連絡を下さい」。

「ああ、五体満足だったらね!」。

そんな、とんでもない言葉での再会の約束をし、彼と別れた。

 

 バスは、ラチャ鉄橋を渡った。今度はボスニア側の検問所だ。武装兵士がバスに乗り込み、一人ずつIDカードをチェックする。私の番が来た。パスポート、情報局で発行してもらった書類、IDカード等を手渡しながら、

「ヤポンスキ ノビナル・・・(日本人ジャーナリストです)」。

「荷物を持って、表に出ろ!」

と言わんばかりに、アゴをしゃくりあげる。ヨシップ君の荷物をどうしようかと思ったが、もし自分が入国出来なくても、このバスはバニャ・ルーカまで行く。自分の荷物だけを持ち、運転手に「ちょっと待ってくれ」とジェスチュアーをし、バスから降りた。

 2人の兵士に両脇を抱えられながら、監視所らしき所に連れて行かれる。「またかよ!」国境で引きずり降ろされるのは、これで3度目だ。驚くことはない(前2回は1989年の東欧革命の時だった。旧チェコ・スロバキアとハンガリーでの事だった)。その監視所の中に通されるやいなや、壁に掛けられた7丁もの自動小銃が目に飛び込む、不気味だった。「来たか!アカシの手先!」4人の兵士に茶化される。カメラバッグをぶちまけられ、取材ノートや資料のコピー等も問いただされた。いいかげん頭に来たが、こういう場では自己主張してはいけないと経験上わかっていた。言われるまま、所持金を提示したときにはどよめきが起った。

 内戦下の国に銀行が機能しているはずがなく、全て US$キャッシュで持って行った。毎回、小額紙幣が足らなくなり不便をしていたので、今回は$1や$5ばかり大量に持ち、とんでもない札束になっていた。「大切なお客様だ」とでも思ったのか?突然態度が変わる。

「日本のライスワイン(酒のこと?)を飲んだ事がある。なかなか良かった。ボスニアのラキア(プラム ウォッカ)もいいぞ。どうだ」。

断るのは風習に反すると聞いた事があった。彼等の真似をして一気に飲ってみた。

「ドブロ、ドブロ!(なかなかいけるじゃないか!)」

冗談じゃない!喉が焼けてしまうかと思った。酒で互いの心が和むと釈放(?)された。これでヨシップ君の荷物も運んでやれると思いきや、バニャ・ルーカに着くまでに、この検問は10回もあった。その度に同じ事が繰り返された。「降りろ!」「アカシの手先!」「札束」「ラキア」・・・。

 明石康・旧ユーゴスラビア問題担当国連事務総長特別代表や、緒方貞子・国連難民高等弁務官といった日本人の名前が旧ユーゴ中に知れ渡り「また、日本人が来た」とばかりに、彼等の暇つぶしの格好の対象になったのだろう。最初、なんていいかげんな国境警備だと思ったりしたが、酒とカネがあれば“のほほん”としていられる。男なんて生き物は洋の東西を問わず、いいきなもんだと“初めて会ったセルビア人”の気持ちの一面を覗けたような気がした。

 

 ヨシップ君が「危険だ」と言っていたブルチコの街が近付いた。“命の回廊”はここから始まる。ブルチコの街は、サバ川を挟んで北側がクロアチア領、南部からはムスリム勢力が攻め込みセルビアの領土は狭い所で700mしかなく、常に被弾の危険にさらされている。クロアチア勢力にしろムスリム勢力にしろ、このブルチコを堕せばボスニア内のセルビア勢力は袋のネズミとなるわけで、セルビア勢力としても最精鋭部隊を集結させている。言い換えれば、僅か700mの間に3勢力の最精鋭部隊が睨み合っているという状態で、サラエボ、モスタルとはまた違った意味で激戦区といえる。

 ブルチコの街は、廃墟同然だった。「もう二度と住めないようにしてやる」と言わんばかりに、家屋は破壊し尽くされている。人のいなくなった住宅街は草ぼうぼうだ。軍用トラックや迷彩服姿の兵士が、路上を慌ただしく行き交う。絶え間ない銃声と砲弾の炸裂音の包まれ、写真でしか見た事のなかった第二次世界大戦の戦場さながらの光景が目前に広がっている。超低空飛行の武装ヘリコプターに守られているのか、監視されているのか分からぬまま、被弾した穴だらけの道を我々のバスは唸るようなエンジン音を轟かせながら、ぶっ飛ばし続けた。

 紛争地では山岳地帯や、険しい、ひとけの無い状況が“安全”とされる。この命の回廊も全く同じで、険しいルートだが、交通量だけは圧倒される。物資輸送トラックもしかりだが、多くは自家用車だ。車内にはダンボール箱が

、ぎゅうぎゅう詰めになっている。ナンバープレートの殆どが、ZA(ザグレブ)、LJU(リュブリャナ)といった国外だ。欧州各地へ出稼ぎ労働者として散っていたセルビア人や、親戚、知人が週末を利用し、危険を冒してまで生活物資を届けにやってくるのだ。

 

 途中、休憩で立ち寄ったレストランで運転手との会話が興味深かった。

「戦争が無ければ、ボスニア・ヘルツェゴビナは良い所ですね」。

「ちがう、ちがう! “ボスニア・ヘルツェゴビナ”ではないんだ。“ユーゴスラビア セルビア人共和国”と言うんだ。クロアチア人や、ムスリム人にとっては“ボスニア・ヘルツェゴビナ”なんだろうが・・・」。

セルビア人である運転手に“お説教”されてしまった。

 

 そうだった、うかつにも忘れていた。セルビアはボスニアの独立に反対し、連邦維持を主張し続けたのだから、ムスリムとクロアチア両勢力主導の独立国家の国名を使うわけにはゆくまい。この事は大手メディアでは、あまり報じられていない。

 多くの場合「内戦の続くボスニアでは・・・」とか「次はボスニア情勢です・・・」と始まるからだ。国家承認されている国だから“ボスニア・ヘルツェゴビナ”で正しい。しかし、その中に内戦前から居住して、独立に反対しているにもかかわらず、ひとくくりにされての反政府勢力呼ばわりは“ヘルシンキ最終文書・民族自決の尊重(注)”に反する。

 ’93年8月、マケドニアからコソボ自治州に列車で入国した時も同じような事があった。

「もう、セルビア領に入ったのですか?」。

「セルビア? No!  ユーゴスラビアだっ!」

隣に座っていた初老の紳士は、このたった一言で血相を変えた。あくまでもセルビア人としての帰属意識を強調する。

 

 6つの共和国に、5つの民族が住み、4つの言語を話し、3つの宗教を信じ、2つの文字を使いながら、1つの連邦国家を形成していた頃は皆、仲良くやっていたと何度も聞いた。しかしながら今ではそれは、怒濤のような憎悪となってしまった。

 丘陵地帯と大平原の中に点在する村々を通過する度、途中下車するものを降ろし、ヒッチハイクする者を拾いながら我々のバスは“命の回廊を”バニャ・ルーカ”目指し、ひたすら走り続けた。

 

(注)ヘルシンキ最終文書

 

1975年、東西両陣営35ヵ国首脳が集まり、CSCE欧州安保協力会議を開催。ここで採択された最終文書は、

(1) 武力による国境変更を認めない。

(2) 民族自決権の尊重。

(3) 人間と情報交流の拡大。

を唱った。しかしこれは、冷戦に対応した枠組みであり冷戦終結後の現代、特にユーゴスラビアには“あちらたてれば、こちらがたたず”の関係で、全く機能しなかったのだ。

 

 

3.  ホテル ボスナ 305

 

 ヨシップ君のガールフレンド、ターニャの車で街を案内してもらう。まず、プレスセンターに直行し、取材登録を済ませてからバニャ・ルーカ市街地を廻る。素晴らしい街並だ。広い通りにはバスや車が行き交い、街路樹は春の訪れとともに青々とおおい茂る。その舗道には人々が夕暮れの散歩を楽しむ姿。カフェバーやレストラン、ディスコが軒を並べ、ロックの強いリズムの中、若者達で賑わっている。街は活気に溢れていた。「ここが内戦下の国か?」信じられなかった。唯一、異様さを感じさせる事と言えば、自動小銃の連続音や砲撃の炸裂音が近くで響いている事だった。「戦況が一変して、勢力圏が入れ替わったのか?」と思ったが、数時間後には身の危険は無いと気付く。

 

 「まともなホテルはここだけだわ・・・プレスセンターにも近いし、便利でしょう?困った事があったらいつでも電話して・・・それと・・・通訳のお仕事があったら、いつでもOKよ」。

と、ターニャが連れて来てくれたのは“ホテル ボスナ”。とりあえず三ツ星。外見は立派な建物だが、経験から考える“まともなホテル”と、この状況下で長く暮らすターニャが言うそれとの差は格段で、ホテルのドアを開けた瞬間にわかった。ドアボーイではなく、武装した兵士がいるのだ。暗い! ロビーにも、レセプションにも照明がついていないのだ。こんな閑散としたホテルのロビー、見た事がない。満室のはずがなかった。他のジャーナリストもいなかった。

「トイレ、シャワー付きシングル、朝食込みで一泊$40。それから、お湯は出ませんよ」。

フロントの女性は申し訳なさそうな表情もせず、たんたんと言ってのけた。この建物全体に電気が来ていないのか?

 私の部屋は305号室。日本の3Fとは違い、1Fがロビーとレセプション、2Fがレストランとラウンジ、客室は3Fからとなり、実際5Fということになる。とりあえずエレベーターのランプはついてはいたが、突如故障して閉じ込められたのではたまらない。暗い階段をとぼとぼ登る。私以外に果たして何人の客が泊まっているのだろう?自分の足音だけが響き渡る、ひっそりしていた。やっと自分の部屋についた。照明はつかなかったが、テレビだけは見られた。MTVから流れる美しいスローバラードが「今日はこれくらいにして休みなさい」とばかりに私を包み込む。そのままベッドに倒れると、一気に睡魔に襲われる、疲れ果てていた。丘陵地帯の悪路を飛ばす、満員バスに9時間以上も閉じ込められ、各検問所ではラキアの一気飲み、やっとたどり着いたホテルはこの有様、ダメ押しで窓の外からは自動小銃の音・・・しかし、とにかく人々の表情を見なければ・・・。なんとか体を起こし「シャワーでも浴びて気分転換だ・・・あっそうだ、お湯が出ないんだ」。タオルで体を拭こうにも、水道の水も濁っている。仕方ない、荷物からなけなしのミネラルウォーターのボトルを取り出しタオルに含ませ、それをテレビの上へ・・・。テレビの熱で”蒸しタオルもどき”を作ろうかと思ったのだが・・・無駄だった。それでも、なんとかさっぱり出来たので「外は20時頃まで明るい、あと4時間、とにかく歩こう。それから爆睡だ」。と、街へ出た。 

 

 バニャ・ルーカは、ボスニア北部にある人口19万人の主要都市。セルビア勢力の完全な支配下にあるため、内戦下といえども戦闘状態にあるわけではなく比較的安定している。つまり、軍事拠点という意味でもあり、実際、市街地のド真ん中に軍のキャンプがあり、私が聞いた自動小銃や砲撃の音は、そこでの兵士の訓練だった。商店には食料品をはじめ、日用品など西側商品が無いわけではないが、セルビア本国が国連の経済制裁を受けているため、援助面では格段に滞り経済状態は極めて悪い。

 

 ターニャの車で街を廻っている時に感じていた不思議な違和感と言おうか第一印象が、あれよあれよと言う間に崩れ去ったのはこの時からだった。市民全員が街に出て来たのではかいか?と思う程、大勢の人がペットを連れ夕暮れの散歩を楽しんではいたが、それはこの国の習慣であり驚く程のものではなかった。カフェバーやディスコなども軒を並べてはいたが、営業していたのは数件。レストランにいたっては、看板は立ってるものの大袈裟にチェーンロックされたままという感じだ。かろうじて“Express Restaurant”なるファーストフード店が幾つか開いているだけだった。たとえ食材があったとしても電気、ガス等、燃料が業務用に安定供給されないためコーヒーをおとしたり、ハンバーガーを焼く程度というわけだ。

 疲れていたので、夕食をハンバーガーで済ませる気にもなれなかったので、少々高くつくが近くのカフェバーでビールを、それからホテルに戻りレストランでディナーをと奮発した。

 

 メニューを列記してあるカードを見せられたが値段は消してあった。時価なのだ。どんなもので、どんな調理なのか、聞くのも気が引けた。出せる料理など、ごく僅かなのだろうから・・・。

「今日のおすすめは?」。

「山羊のステーキ バニャ・ルーカ風はいかがでしょう?当店の定番でありまして、外国からのお客様には好評頂いております」。

たぶん、それしか出来ないのだろう。それに、ビールとトマトサラダを頼んだ。

 グリルした薄く大きい山羊の肉にクリームソースをかけ、フライドポテトとパプリカが添えてある。このクリームソースがバニャ・ルーカ スペシャルなんだそうだ。肉はチキンのように柔らかく、味はビーフのよう。脂っこいがなかなか旨い。トマトサラダも、こんなに甘いトマトを食べた事がない。日本のフルーツトマト以上だ。

「どうです、お口に合いますか?」

「山羊の肉は初めてですが、とても気に入りました」。

「有り難うございます。デザートはどうします?チーズケーキ、チョコレートケーキとがございます。コーヒーもご一緒に?」。

 意外にサービスの良かったウエイトレスにチップを渡そうとして少し戸惑った。小さな現金は$1しか持っていなかった。この国のウエイトレスのチップとしては高すぎるが、セルビア・ディナールはまだ持っていなかった。食事が$30(宿泊料は$40)だったので、こんなもんだと$1のピン札を差し出す・・・。宝石でも手にしたかのような、女性特有の微笑みが返って来た。

 

 

 

4.   俺はユーゴスラビア人だ!

 

 連邦国家時代の国税調査で、自らの民族名を“ユーゴスラビア人”と登録するものが多かったという。セルビア人、クロアチア人、ムスリム人達の間でいわゆる“異民族間結婚”した人々やその子供達の事だ。驚く事もないほど一般的な事で、特にボスニア・ヘルツェゴビナではその“ユーゴスラビア人”とする者が人口の5.5%をしめたという(旧ユーゴでは3%)。

 バニャ・ルーカの北西約40kmの街、人口17万人のプリエドールでもこの“ユーゴスラビア人”とする人が5万人以上に達するといわれ、内戦勃発以降エスニック クレンジングの下、微妙な立場での生活を強いられている。

 

 住宅街の中心とはいえ、砲撃で破壊された教会が微かにそびえ立つ光景は、ドラキュラの屋敷を連想して不気味だった。さらに、その中から男性の唸り声(聖歌ではなく)が聞こえてきた時には、イタリアのオカルト映画さながらで昼間だというのに身の毛もよだつ思いだった。「まさか、捕虜が拷問でも受けているのか?」近寄って覗いてみるとスコップを振り回してる人夫が15~6人。この教会の修復工事をしている事がわかった。そして、その“歌声”は疲れた体の気付に飲んだラキアのせいである事もわかった。

 

 マルティノビッチさん(47才)は、人夫を15人もかかえる左官屋の親方だ。内戦勃発以降、エスニック クレンジングの下でも4人のクロアチア人、3人のムスリム人を解雇しようとは思わなかったという。

「戦争が始まる何年も前からこのメンバーでやってきたし、皆この街の住人だ。同じ釜の飯を喰ってきた。フェアーを心がけている。突然『戦争だ!』と言われても・・・できる理由ないだろ?」。

 エスニック クレンジング ー セルビア人支配地域に少数派として住むクロアチア人やムスリム人達は“反セルビア”と見なされ、強制収容所に入れられ拷問やレイプを受け、殺される ー といったニュースが流れる中、この“マルティノビッチ組”が僅かに旧ユーゴスラビアらしさを残していた事に感心した。

「はあ?・・・あなたの周りには多くのセルビア人がいるでしょう?隣人、友人、同業者・・・そういう人達から悪く言われませんか?『ヤツは反セルビアだ!』などと」。

「いや!私はセルビア人じゃないよ、ユーゴスラビア人だよ!私には3民族の血が流れているんだ。わかるか?」。

「では、あなたのご両親やご子息もそういう事になりますね?」。

「そういう事だ。ユーゴスラビア人を名乗る者にとっては、エスニック クレンジングなんて馬鹿げた事だ。だが、あなた方も知っているとおり、酷い状況の者の方が圧倒的に多い」。

 さすが親方だ、周囲への気配りが出来ている。だが、働く者同士はどうなのだろう?だがそれも“3時休み”には納得出来た。てんでに腰をおろし一服つけ始めた頃、一人の女がビールケースを持ち込み栓を抜き始めた。アルコールを禁じられているムスリムのあの3人はどうするのかと遠巻きに見ていると、

「勿論、あの3人は飲まないよ。コーヒーを用意してある。お前はどっちにする?」と、後ろから親方に肩を叩かれる。

 

 古き良きユーゴスラビアが、ここプリエドールに残っていた。苦労して来た甲斐があった。と同時に、今伝えられている民族紛争という言葉が果たして適切なのだろうか?この国の、この内戦についての解釈の仕方、受け止め方は別のところにあるのではないか?ひょっとしたら、大きな課題を抱えてしまったのかもしれない。

 

 

 

5.  本音?

 

 列車を待つホームの人ごみの中に、ひときわ精悍な風貌の兵士がいた。ガッチリした体型、短い金髪、青く鋭い瞳、濃緑色の軍服に自動小銃を肩にかける。ベレー帽をかぶせれば最精鋭部隊のコマンドーといった感じだが、周囲をきょろきょろする姿は「ボク、兵役中なんだぁ~」といった感じで憎めなかった。2~3回、目が合ったので話しかけてみる気になった。

「セルビア軍で働いているの?」。

「ああ、そうだよ。中国人?」。

「いや、サムライだ!」。

「ああ、アカシと同じか・・・ジャーナリスト?・・・またセルビア人の悪口を書きに来たんだろ?」。

「いや、私はカメラマンだ。人々の日常生活を撮りに来ている」。

そう言われても仕方ない。国際社会では「セルビア人がテロリスト」説が支配的だからだ。その理由はかつての連邦時代、国内ニュースを国外へ配信する基地がクロアチアのザグレブにしかなく、内戦勃発当時クロアチアの情報操作により“テロリスト セルビア人”を大々的に流したのが根本的な理由だ。したがって西側ジャーナリストにも容赦無しに銃口を向けている。すでに40人以上が犠牲になっている。「アカシと同じ・・・」がせめてもの救いだった。

 

 セルビア人が・・・セルビア人が・・・とセルビア人ばかりを非難しているニュースに疑問を持ち、彼等の肉声を聞くためにここまで来た。若い彼ならざっくばらんな話しが出来るかなと思った。

 ゴラン ミロシノビッチ、21才、最前線へは就いてないらしいので、ぺーぺーなのだろう。彼の言う事をメモしようと取材ノートを取り出す。するとどうだろう、新聞の切り抜きや資料のコピー等を貼ってあるのを目ざとく見つけ、

「これはどうせ、セルビア人の悪口が書いてあるんだろう?」。

「また言う・・・これは国際赤十字とUNHCRの援助の記事だ!」。

本当にそうだったのだ。これらのオフィスや診療所を訪れるつもりでいた。

「あなた達の敵は、いったい誰なんだ?クロアチア勢力?ムスリム勢力?外国人ジャーナリスト?」。

「敵だとは思ってないよ。かつて私たちは普通にコミュニケートしていた。友人知人、親戚がどの民族に属するかなんて考えた事も無かった。それを、わざわざセパレートさせたのはECで、特にドイツだ。お前は覚えているか?1992年2月29日にボスニア独立を問う国民投票があった。クロアチア、ムスリムは独立に賛成し俺たちセルビアは反対していた。だから政治家達は、その独立についてもっともっと話し合う必要があった。にもかかわらずドイツは真っ先に独立を認め、さらにECにもそれを認めるよう働きかけた。これがフェアーだと思うか?」。

「思わない。わたしもあれはECのミスだと思ってる。でも、どうして何十回もの和平案に対して『NO!』とばかり 言い続ける?」。

「この問題は、周りの皆でいつも話してる。分割の方法が問題なんだ。民族の分割ではなく、行政の分割だ。民族の分割なんて出来るはずがない。領土は面積ではなく質の問題だ。お前はここまで来るバスの中から何が見えた?丘とか山ばかりだったろ?農業どころか、どんな産業も難しい。それから西欧へもたやすく行けるよう、アドリア海へアクセスする回廊も必要だ。このアクセスが悪いというのは、サラエボ オリンピックの時からの問題でもあるんだ」。

「じゃあ、ユーゴスラビア人を名乗る人々はどうなる?彼等のアイデンティティーは?」。

「だから言ってるだろ!民族名が問題なんじゃないって!」。

驚いた。いや、ショックだった。民族紛争とか憎悪の歴史・・・そんな、ひとことふたこと程度で今まで振り回されていた自分は何だったんだ。人間としての当然すぎるほど当然の本質、根源を彼等は極限の生活の中でも忘れず、望み続けている。

 

 紛争解決のために、どんな手段が考えられるだろう?三民族別に細かく、それこそ細かな分割地図を作るのか?各民族がモザイクの如く入り組んだボスニアの地に、当事者たちが不満無しに受け入れる地図などありえない。

10対0の勝敗がつくまで、とことん戦わせるのか?流される血、失う物の大きさを考えれば、人間の沙汰ではない。国際社会が歩調を合わせ、武力を行使してでも平和を強制するのか?それではまるで共産主義の再来だ。

 戦争が長引けば長引くほど、泥沼の深みにはまるほど、この国の未来が過去に払う代償は大きい。

 

 語気強く、セルビア人の主張を放っていた彼ではあったが、別れ際に周囲を気にしながらボソッと恥ずかしそうに言った。

「ボクはまだ21才、とても若い・・・」。

「ああ、見ればわかる」。

「ボクには将来がある。でもこの国は・・・見てのとおりだ・・・」。

「いや、立派な考えを持ってるじゃないか、お前は」。

「もっといい国でチャレンジしたい・・・できれば日本で・・・」

 

6. 結婚  

 

(前出 “リリアナ ミラシノビッチのこと” と一部重複)

 バニャ・ルーカ最後の夜。日本から持ってきた3本のロウソクも、ちょうど終わりそうだ。その光の中で原稿を書いている時だった。確かに私の部屋のドアをノックする音が聞こえた。「誰が、何の用事だ?」。顔馴染みになったこのホテルのレストランのウエイトレス、リリアナだった。忘れていた、明日のランチボックスを持ってきてくれたのだ。そのまま仕事に戻るのかと思っていたら、何か言いたげだった。

「・・・少し時間はありますか?」。

ヨシップ君の時のように、ここでもまた何か頼まれるのかと思った。まあいいだろうと部屋に入ってもらった。ちょっとした世間話の後に、彼女はボソボソと話し始めた。

「プライベートに立ち入るようだけど・・・もしあなたが独身で・・・恋人がいないなら・・・私の娘と・・・できれば・・・できれば日本に・・・日本人とセルビア人は何の問題も無いし・・・治らないのよ、病気が・・・戦争で・・・」。

真顔で言う。

 

 夫は戦死した。19才の長男も徴兵され、4勤3休というシフトで月給100DM(約6800円)。リリアナのウエイトレスとしてのチップもたかが知れてる。出口の見えないドロ沼の内戦、明日の事さえ分からない。「無いのよ、全てが・・・薬、病院、食料、お金・・・」。

 互いに英語での病名が出てこない。“熱と咳”のジェスチュアーと“治らない”と言うのだから、肺炎か喘息なのか?市内の3つの病院とセルビア赤十字、国際赤十字、UNHCR全てがままならない。そこで国外脱出を考える。そのためのパスポートとギャランティーを得るには外国人との結婚しか思いつかない。その相手になってくれと真顔で言う。「セルビア人と日本人とは何の問題も無いし・・・」。そこまで言う。子を思い詰めた母の気持ち・・・。今までに、西側ジャーナリストが難民の孤児を養子に迎えたり、ミス・サラエボと結婚し国外へ連れ出したといった話しは聞いた事があった。しかし彼等とて、単に情が移っただけではなく、悩んだ結果としての判断だった事だろう。

 役所に行き、婚姻届けにサインするだけなら簡単だ。だが、有効なのは1名のみだ。他の380万人ともいわれる難民はどうなる。いや、全員を救えないからといって1人を救わなくていいという問題でもあるまい。たとえそれが成功したとしても、戦争が終わらなければ意味が無い。じゃあどうすればいい。深夜、電気の来ない部屋にロウソクを灯しての会話。出るのはため息ばかりだった。嘘も方便 ー 「結婚している」とか「婚約者がいる」とか言ってしまえば、どんなに楽だった事だろう。「外国人ジャーナリストとして、人間として、気構えは出来ているのか」と詰め寄られているかのようだった。

  ベオグラードに戻ってから、日本に戻ってから薬を送るという約束と、戦争を憎む、それ以外何も思いつかなかった。「このまま日本に帰るのか?」そんな自分の無力さが露になった。

 

 「有り難う」。

と言いながらも何か、ひとりごとをつぶやくリリアナ。

「バカな頼みよね、こんなこと・・・でも、どうしろと・・・」。

セルビア語だったのでよくわからなかったが、たぶん、そういうことを言ったのだと思う。

 真っ暗な廊下をゆく後ろ姿に、何か言葉をかけなければと思ったが、不覚にも目頭が熱くなった。

 

 1994年8月28日、米露英仏独5ヵ国共同の“これが最後”と言われた和平案がまたしても拒否された、セルビア人によって。

200年先か、300年先か、いずれこのバルカン半島から“歴史の憎悪”という言葉が人々の間から忘れられるとしたら、旧ユーゴスラビアの国々は“新たなる統合”への道を進みはじめ、平和で美しい大国になるのかもしれない。融合していた頃の当然さ、難しさを知り尽くしている国家はこの地球上でそれほど多くはないのだから。

 

 

 

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旧ユーゴスラビアで、泥沼の内戦を繰り広げたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。実はその以前からもくすぶり続けているコソヴォ問題。セルビア共和国内のコソヴォ自治州をめぐるアルバニア人、セルビア人両民族間の対立は、その歴史自体が血に染まっている。今後の展開、国際社会の対応次第で第三次バルカン戦争に発展する危険性もはらんでいる。

 

 

●コソヴォ小史

 

 ユーゴスラビア連邦セルビア共和国内にありながら、人口190万人のうち住民の9割以上はイスラム教徒のアルバニア人が占める。分離独立運動を進め、最終的にはアルバニア本国との統合を望んでいる。

両民族の対立の背後には、長い歴史が横たわる。特にセルビア人側にコソヴォへの郷愁が強い。「セルビア発祥の地」だからだ。

12世紀末、弱体化するビザンチン帝国下で、この地にセルビア王国を築くことに成功するが、1389年に侵入してきたオスマントルコに敗北し支配下に。

トルコ人によるイスラム化を嫌って北部へ逃れたセルビア人に代わってアルバニア人が大量に流入する事になる。だが単なる流入ではない。「セルビア人に見捨てられた土地だから・・・」と堂々たる流入であった。1912年には、第一次バルカン戦争が勃発し、セルビアはコソヴォを奪回できたが、住民の大半はアルバニア人という民族構成はそのまま残った。

 

 

●チトー死後の混乱

 

旧ユーゴ時代のチトー政権下ではアルバニア人は広範な自治を認められていた。特に1974年に新憲法が制定され、コソヴォは独自の議会や憲法を持てるようになり、今日の民族問題など誰も予想しなかった。

チトー大統領死後のミロシェビッチ政権は1989年、セルビア共和国議会が、共和国権限を強め、自治州権限を弱体化させる憲法修正案を可決したことをきっかけに反対デモが激化、死者も出るほどになる。翌’90年にはコソヴォ自治州政府と議会を解散。自治権を取り上げ、’91年からセルビア共和国の教育システムを強制する(アルバニア語の学校を閉鎖)等セルビア化政策を展開してきた。これに対抗しアルバニア住民は’90年、コソヴォ共和国樹立を宣言。’92年5月、秘密住民投票で作家のイブラヒム・ルゴバ氏を共和国大統領として選出。税金不払い、学校ボイコット等粘り強い抵抗闘争を展開してきた。

その後は、ボスニア紛争の陰に埋もれた形になっていたが、「ボスニアの次はコソヴォ」と危惧されてもいた。そんな中で今年2月から分離独立を目指すアルバニア系組織「コソヴォ解放軍・K L A 」が活動を拡大。対するセルビア治安維持部隊がコソヴォ解放軍 K L A の掃討作戦を展開。6月にはコソヴォ紛争最大の難民1万2千人を発生させた。

 コソヴォはセルビア人にとって、日本の京都や奈良の様な「歴史」である。しかし、セルビア支配から逃れたいアルバニア人住民が圧倒的多数を占めるということは「現在」に他ならない。

 

 

●セルビア支配に脅える市民

 

 私が初めてこの地を訪れたのは1993年8月。真夏のガンガンの太陽と地中海からのカラカラの空気で、今にも喉に火が付きそうだった。

ジュネーブでのボスニア和平会談を直前に控えているのが影響してか、市民を監視しているかの如きセルビア警察は殺気立っていた。「300m歩けば、セルビア警察と目が合う」そんな状況だった。木陰のベンチでコーラを飲んでいただけの私を見るなり、自動小銃の銃口を突きつけ、安全装置をカチャッと外し「パスポートは?」「許可証は?」挙げ句の果てにはパトカーに乗せられ、警察

本部の司令官らしき人物の部屋に通され、身ぐるみはがされるは、フィルムは没収されるは散々だった。ほとんど毎日、それの繰り返しだった事が強く印象に残っている。

外国人の私でさえそんな状況なのだから、地元市民の不安やおののきは想像を超えるものなのだろう。また、外国人と接触する事も警戒しているらしく、私が市民(アルバニア人)と、ちょっとの間会話しただけでも、店に入って買い物をしただけでもセルビア警察が寄って来る。私の行く先々でアルバニア人が迷惑被ると思うと、うかつに買い物も出来なかった。写真を撮るのも冷や汗ものだった。

あれから5年経った7月、再びこの地を訪れた。雑然とした街並み、脅えているかのような市民の表情。完全独立を要求するルゴバ派やK L A に対し、ミロシェビッチ政権はアルバニア語での学校教育の解禁、コソヴォを3番目の共和国へ格上げ等、対外向け発言をしてはいるものの、圧倒的多数のアルバニア人へのプライオリティーは何一つ変わっていない様子だ。唯一、街路樹だけが五年分

成長し、カフェテリアで談笑する市民に日陰を提供している事くらいか?

 

 

●ユナイテッド アルバニア

 

コソヴォ自治州の人口190万人の九割以上を占めるアルバニア系住民の政治指導者、イブラヒム・ルゴバ氏は、ボスニア内戦の惨劇を教訓に対話路線での解決を唱えてきた。しかしセルビア当局の圧政は、約二年前まで数百人規模の単なるゲリラ的組織でしかなかった「コソヴォ解放軍・K L A 」を組織化させ、州内セルビア警察拠点等を襲撃するほどに拡大させた。セルビア治安部隊は、彼らのことを「K L A 」とは呼ばず「テロリスト」と呼ぶ。そういう意味からすると、セルビア勢力、アルバニア勢力と言うより、政府軍対反政府軍といった見方がふさわしいかもしれない。

全面武力闘争によるコソヴォ完全独立を方針とし、兵力約1万5千人。半数近くはボスニア内戦に加わっていたらしい。州全土の約三割を掌握。武器供給ルートはアルバニア本国とマケドニア内アルバニア人から。しかし、自動小銃や手榴弾等、小火器程度しかなく、戦術的に見れば単なるゲリラ戦でしか戦えない。資金源は国外(スイス、ドイツ、アメリカ)居住のアルバニア人からとなっている。

コソヴォ解放軍・K L A が目指す「完全独立」とは最終的に「ユナイテッド・アルバニア」。つまり独立コソヴォ、マケドニア内アルバニア系住民多数地域、そしてアルバニア本国との統合だ。

 

 

●東部と西部に分断

 

’98年7月、コソヴォ自治州は東西に分断するほどに対立していた。

プリシュティナ、コソフスカ・ミトロビッツァ等の東部を事実上支配したセルビア治安部隊。

ペーチ、ジャコビッツァ、マリシェボ等の西部を拠点とし、更に勢力拡大を狙うコソヴォ解放軍・K L A といった勢力分布が描けた。しかしそれは、重火器がズラッと並んだ最前線と言えるものでなく「セルビア治安部隊がいない」といった状況だ。その中間に位置する地域は、地元市民の言う「フリースペース」。何故そう呼ぶのか

・・・。通常、敵対する二つの勢力の間は最前線となり、住民は避難し無人の街となる。あるいは非武装地帯や停戦ラインとなるが、ここコソヴォでは、山や丘ばかりで、大きな街や幹線道路が無く、ほとんど人が住んでいない・・・という意味である。検問やバリケードも少なく、平事の時と同じように日常生活が出来る。また、そういった地域はボスニア内戦時のポサビナ回廊、ゴラジュデ回廊

と同じように、ぎゅうぎゅう詰めのバスが行き交う。

プリシュティナ、コソフスカ・ミトロビッツァ等、東部の市街地、住宅街には砲弾が撃ち込まれている状況ではないので”内戦状態”とは言い切れない。入国(入州)も問題なかった。ただ、郊外へ抜ける道路、街と街とを結ぶ主要幹線道路には検問やバリケード等が無数に設置され、市民の動きを常に監視。各勢力、互いに睨み合いの様相。

そんな状況を表す典型的な例がある。東部のプリシュティナと西部のペーチを結ぶ国道30号線だ。ルプシュニクをコソヴォ解放軍・K L A が、またコモランをセルビア治安部隊がおさえ、通行できるのは軍の車輌と防弾使用の報道車輌のみ。東西を結ぶ主要幹線道路は他には無く、事実上コソヴォは東西に分断されている形だ。

こういった理由から、東西を結ぶ”迂回ルートのバス”が2本出現している。”

北部ルート”と”南部ルート”。北部ルートとは、プリシュティナ~コソフスカ・ミトロビッツァへ、更に北上し、一度セルビア本国に出てロジャイまで西進、そこから南下し再びコソヴォ自治州へ入り、ペーチへとつながる。

セルビア本国~コソヴォ自治州の”国境”の検問は、かなり厳しいものだった。「アルバニア人が大勢乗ったバスがセルビア本国へ入る」という状況から、武器の密輸を憂慮するという意味なのだろう。一般市民のふりをしたK L A もかなりいると聞いた。

もう一本の南部ルートとは、例のフリースペース間に上手く収まっている国道62号線を使いプリズレンまで一気に南下、そこからジャコビッツァまで西進出来る。いづれにせよ、バスという移動手段は残ってはいるものの、バス会社自体はセルビア人が仕切っているため、アルバニア人乗客はおろか日本人の私でさえ車掌から乗車を拒否されるといった”嫌がらせ”がしばしばあった。この”しば

しば”というのは、バス乗車拒否に留まらない。何かにつけて不審に思われ警察官の暴力的な尋問は日常茶飯事だ。対照的に、タクシー運転手はアルバニア人が多い。セルビア人バスの乗車拒否を喰らった”おこぼれ”をアルバニア人タクシーが頂くといった光景は無かった。大きな荷物をいくつも抱え、いつ来るかわからないバスをひたすら待ち続ける彼らの姿は哀れでならなかった。

プリシュティナ・ドラゴダン地区の丘に登ると、ベラチェバッツの街が彼方に見える。セルビア治安部隊やコソヴォ解放軍・K L A の「いつでもやれるゾ!」とでも言いたげな機関銃の連続音、砲弾の地響きは絶え間なく聞こえるが、高度に訓練された兵士の統率のとれた戦術、戦略と言うにはほど遠い。何かを標的にしているというより、酔った勢いでブッ放している、というような印象を受けた

 

 

 

●陸の孤島か? 西部ペーチ

 

北部ルートを使い八時間。コソヴォ解放軍・K L A の拠点の一つとも言える西部ペーチに入る。旧市街の家々、川沿いの遊歩道にカフェテリアが見事に調和している。北にはなだらかな丘、西を向くと岩山が一気にそそり立つ。美しい街だ。多くの市民や迷彩服姿の兵士までもが強い日差しを避け、木陰のカフェテリアで談笑する。そんな光景を見ると、近郊での戦闘が嘘のようだ。だが、市民と会

話を始めるとセルビア人への、アルバニア人への鬱積した何かが一気に吹き出し、全く出口が見えない状況が手に取るように分かる。

東部地域を取材していたとき、セルビア人バスから乗車拒否を喰らったのと同じように、ここペーチでも似たような状況に遭遇した。 「ここはセルビア人の土地だ!セルビア人以外は出て行け!」舗道のベンチで一服していた私に向かって、50歳位の女性が口からアワを飛ばしながら怒鳴った。セルビア人によるアルバ

ニア人排斥と言うより「セルビアの土地に住める者はセルビア人のみ!」とでも言いたいのか・・・?ヒトラーの「一国家、一民族」ではあるまいし・・・。追い詰められた状況はセルビア人にとっても同じ様だった。しかし、K L A が支配権を握る街ではあるにしても、東部と同じように警察、ホテル従業員、バス会社等、公職のほとんどをセルビア人が仕切っているというのは何とも不思議な事ではある。

 

一方、郊外に出ると打って変わり、そこはスナイパーストリートそのもの。デチャニ~ジャコビッツァを結ぶ国道36号線がそれである。デチャニは6月末、セルビア警察特殊部隊により陥落した街。ほとんどの住民はアルバニア本国に逃れ、事実上、民族浄化された。今では数人のセルビア人住民が残ってはいるものの廃墟、無人の村と言っていい。

コソヴォで1万2千人という難民が発生したのは初めてだ。スナイパーストリートとは、その村と約10km南のジャコビッツァへの国道36号線の事。その支配権を持ち、死守するセルビア治安部隊。奪回を挑むコソヴォ解放軍・K L A が周囲に迫るという構図。特に村中心部から南へ約5kmの区間は林、茂みに囲まれた石畳の道路。セルビア治安部隊のバリケードは無数に築かれてはいるが、コソヴォ解放軍・K L A にとって、まさに待ち伏せ攻撃するに打ってつけ。ジャコビッツァへ通ずる道路は西側に農道がもう一本走っているが、それでも何故か多くの車やバスがこの道を通る。セルビア治安部隊の検問も3カ所有るが「打たれても知らないよ」と言われるだけでとりあえず通過可能。「狙われるのは軍のトラック、装甲車、パトカー等でセルビア車、アルバニア車に限らず一般車輌、バスは割と大丈夫だ」とヒッチハイクしたドライバーの言葉が興味深かった。「一般市民を巻き込むな」というのがK L A の方針か・・・?

アルバニア系住民が置き去りにしていった家畜が、猛スピードで走り抜ける車にひかれ、死体が散乱、村には死臭が立ちこめる。ペーチ~クリナ間の国道26号線にも同じ事が言えた。

デチャニは残された数人のセルビア人住民と村をセルビア治安部隊が死守してはいるものの、ペーチ、ジャコビッツァ市民にとっては東部、南部の大都市へ通ずる主要幹線道路がこのような有様。北はセルビア本国、南はアルバニア本国。

人、物資の移動が困難である以上、陸の孤島化しているとしか言わざるを得ない。そういった意味からすると、ボスニア内戦時のバニャ・ルーカやビハチと同じ事が言える。

 

 

●コソヴォは誰のものか?

 

「歴史的に見て、セルビア人の土地だ」

「いや、多数派のアルバニア人が優先だ」

という言葉は、何度も耳にしたが、最近では「アルバニア人だからイヤなんだ」「セルビア人は・・・」

と、とどまるところを知らない憎悪に変わりつつある。その言葉はコソヴォ内に留まらず、遠く離れたベオグラードでも聞かれた。

憎しみを宿した人間の心が尋常じゃないという歴史をバルカンに生まれた者ならば、痛いほどたたき込まれているはずだと思うのだが・・・。

コソヴォ紛争の行方は、この自治州の地位の行方にかかっていると言えるだろう。考えられるオプションは三つ。

 

(1)自治権を回復したコソヴォ自治州。

(2)連邦内三番目の共和国に格上げしたコソヴォ自治州。

(3)連邦離脱、完全独立したコソヴォ自治州。

 

(1)を主張するユーゴ連邦政府。(3)だけを要求するルゴバ派やK L A 。

(2)が妥協点かもしれないが「独立へ通ずる」と警戒するユーゴ連邦側と、眼中に無いルゴバ派とK L A 。

戦況も同じように堂々巡りだ。重火器の量では勝るセルビア治安部隊ではあるが、セルビア本国からの正規軍兵士が国際社会の圧力によって出動できない点。コソヴォ解放軍・K L A にしても、アルバニア本国からの武器輸送直通ルートが乏しい事(山岳道路のみ)があげられる。互いに士気の低下も考えられる。

歴史的見地からすると、「コソヴォはセルビア発祥の地」になるが、アルバニア人の祖先”イリリア人”が最初にバルカンの地に入り、後の「アルバニア王国の中核」を迎えた時期もあると言う点も見逃せない。歴史論争をからめ民族的純粋な領域、政治的優先意識を主張し合い出すと、コソヴォに限らず、バルカン問題は一筋縄では行かない。

 

 

 

●見つからない解決策

  

ボスニア内戦という第二次世界大戦後最悪の例があるにもかかわらず、またしても国際社会は手をこまねいている。

キーワードは”民族自決”。

二度の世界大戦を経験した欧州諸国は、冷戦の最中、三度の戦争防止措置として1975年、東西両陣営35カ国がヘルシンキに集まりC S C E 欧州安全保障協力会議を開いた。ここで採択された”ヘルシンキ最終文書”は、

 

(1)武力による国境線の変更を認めない。

(2)民族自決権の尊重。

(3)人間と情報の交流拡大。

 

を唱った。しかし、これは当時の冷戦構造に対応した枠組みであり、冷戦構造崩壊後吹き出した民族紛争には全く機能しなかった。バルカン半島、特に旧ユーゴでは、あちら立てれば、こちらが立たず、の関係にある。

例えば、民族自決権を優先させるとコソヴォ・アルバニア系住民の完全独立を認めなければならないが、セルビアの領土が縮小(国境線が変更)といった具合だ。同じように旧ユーゴのクロアチアの独立とクロアチア領内セルビア人居住区”クライナ”との関係しかり。ボスニアでは、それが更に複雑になった。三民族の合意の無いまま、ムスリム勢力が民族自決権を行使し独立に走った。三民族の

居住区がモザイクの様に入り組んだボスニアは民族自決権の尊重と、国境線の変更禁止が当てはまらず、泥沼の内戦に至った。

冷戦構造崩壊後、吹き出した民族紛争に対応する新時代の枠組み構築が急務であることは言うまでもない。

 

 

●最悪のシナリオ

 

紛争調停に入った欧米主要国は”コソヴォ完全独立”に強く抵抗している。残念ながら、非常に現実味を帯びているシナリオ”第三次バルカン戦争”があるからだ。

戦闘が大規模化すると・・・それぞれの本国、セルビア、アルバニアからの軍事支援が始まる。特にアルバニア本国が兵士、武器を輸送する場合、コソヴォとアルバニア本国を直接結ぶ幹線道路は無く、マケドニアを通らなければならない。人口の三割を占めるマケドニアのアルバニア人をも巻き込む事になる。そんな動きを憂慮するギリシャとブルガリア。ギリシャはマケドニアと東方聖教という

絆で精神的には結ばれているものの、両国の関係は今、ひどく険悪だ。「古代マケドニア王国はギリシャ人の国。アレクサンダー大王ゆかりの国名を新興国スラブ人のため(現マケドニア、正式名はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国)のみに使用、領土権の根拠にするのはギリシャ人として受け入れられない」。一方、ブルガリアも「マケドニア人などという民族は本来存在しない。彼らは誇大妄想

を抱いた西ブルガリア人なのだ」と言い放つ。となるとトルコ。ギリシャとトルコは、N A T O の同盟国で有りながら、歴史的には敵国。そのトルコはアルバニアと軍事協力協定を結んでいる。

コソヴォ紛争が六カ国にも飛び火する可能性がある。大量の難民がブルガリア、ルーマニア、ハンガリーへ。そこでまた新たな民族紛争が発生する可能性もはらんでいる。

その1、ルーマニアのトランシルバニア地方。ここではルーマニ

ア人とハンガリー人の対立がくすぶっている。

その2、ルーマニアの東隣モルドバ。ここでもルーマニア人、ロシア人、ウクライナ人、トルコ人の利害が複雑に入り組む。そうなればまさに「第三次バルカン戦争」そのものである。

 

バルカン半島は「火薬庫の周りに火種だらけ」といった感じだ。「温度を下げ

、燃焼物を取り除き、空気を遮断すれば火は消える」チトー大統領時代はそれで良かったが、現代において今後この「燃焼の仕組み」をいかに管理し克服すれば良いのだろう?。「ユーゴの民族紛争はコソヴォで始まった。結末もコソヴォで迎えるだろう」そんな言葉が出ている。

 

 

 

     ● ● ●       ● ● ●

 

 

 

バルカン日記 ’98 夏

 

 

7月2日(木) 成田で一悶着

 

「マケドニアのヴィザが有りませんけど、どういうことですか?」。

「10日ほど前、領事館に電話して聞いたら必要ないと言われたからです」。

「私どものデータでは、事前にヴィザを取得するか、空港で取得の場合はホテルのバウチャーが必要になります」。

「それはいつのデータですか?」。

「わかりませんが・・・情報の行き違いも有るかもしれません。上の者を呼んできます・・・」。

 

スコピエ空港のイミグレの話ではない、成田空港のチェックイン

カウンターでのやり取りである。

「一応、お客様の情報を優先します、10日前の情報と言う事で。しかし、万が一の場合とんでもない事になりますので承知しておいてください。お金は十分にありますか・・・?」。

「入国できなかった場合の国外退去の飛行機代という意味ですか?」。

「そういうことです」。

 

マケドニアがそこまでひどくなっているとは思えなかった。

唯一考えられるのは・・・コソヴォ紛争が激化し、アルバニア本国がコソヴォのアルバニア人の兵力、

兵器を支援する場合、アルバニアとコソヴォを直接結ぶ幹線道路は無い。マケドニア

を通る事になる。となると、マケドニア人口の30%を占めるア

ルバニア人も巻き込むことになる・・・周辺国をも巻き込んだ

コソヴォ紛争・・・ここ数日のうちにそこまで発展するとは思えなかった。

 

モスクワ1泊後、スコピエ着。成田でのやり取りはすっかり忘れていた。

難無くイミグレを通過、荷物全てを機内に持ち込んだ私は、フィルムのX線照射だけは断じて拒んだ(ISO-100だから、まず大丈夫だが)。よって係官に総チェックを受ける。「カメラ機材が何台・・・」とだけ、パスポート

の最後のページに記入され「出国する時に再チェックを受けろ

国内で売りさばいたら罰金になる!」とだけ言われた。どうと言うことはなかった。

 

空港は5年前より多少は綺麗になっていた。まともな銀行もあった。

しかし空港と市内を結ぶ格安交通手段は相変わらず無かった。

タクシーを値切り(400デナーリ)前回と同じホテルへと着いた。

 

(スコピエで)

 

 

 

 

7月4日(土) スコピエの「マクフィ 一家」

 

              

是非、再会したい少女がいた。

長倉洋海氏の真似をするわけではないが、以前撮影した人物が

その後どうしていたのか、今どうしているのか知りたかったからだ。

 

’93年8月、スコピエを訪れた際に、マクフィという少女と出会った。

夏休みだった彼女は、旧市街のマガリ青果市場で友人達とアルバ

イトがてら、ポリ袋のたばを抱え売り歩いていた。日本のスーパーや

コンビニで、ただでくれるあれである。真夏のガンガンの太陽、カラカラの空気の中、声を張り上げ、1日中頑張ってもせいぜい60デナーリ。

チェバプチッチ1個さえ買えないが、それでも毎日けっこう楽しみながら働いている彼女らの姿は印象的だった。

「マクフィはまだ市場で働いているのだろうか・・・?」

気ぜわしく市場へと向かった。

 

以前より増して、活気に満ちていた。

マクフィは見あたらなかった。ポリ袋を売り歩く子供達さえいなかった。

今の子供達は、軽食代わりのゆで卵を売り歩いていた。

「住所は分かってるから、明日タクシーで行ってみよう・・・」

と思いながらとぼとぼ歩いていると、例のポリ袋売りの屋台が数件、軒を連ねていた。「ひょっとすると・・・」と思い「この娘を知ってるかい?」

とプリントを差し出すと、たちまちのうちに黒山の人だかりが出来た。

 

10分ほどたった頃、「ああ、それは私の娘だ!」と1人の男が笑う。

「お前か? 写真を送ってくれたのは・・・もうマクフィはこんなに大きくなったよ・・・」。

偶然にもマクフィの父であった。

明日の昼食に招待された。「明日、マクフィと再会できる・・・」。

 

市場からタクシーで10分ほど。旧市街の中にある住宅。半地下のような部屋に、彼女は笑顔で待っていた。全くはにかむことなく挨拶する姿に、「大人になったんだなあ!」と思った。15歳になっていた。

妹2人、弟1人、6人家族。母親が見あたらない。聞けば「山!」

桃太郎物語じゃあるまいし・・・きょとんとする私に父が、

「今、家を新築中でね・・・・ここから26km北の山の麓なんだ。少しずつ引っ越ししている」。

建築中の写真を見せてもらった。 2階建てのかなり大きい1軒家。レースの仕立ての仕事をしているというマクフィは、新居用のカーテン、テーブルクロス、ソファーカバーなど忙しそうだった。

 

父に定職は無く、午前中はポリ袋売り、午後は土木作業員。

母は家事。マクフィはレースの仕立て。下の妹弟は適当に手伝い。

かなり貧しい家庭なのだが、収入が少ないからといって、生活レベルが低いわけでもないというのがこの国(他、東欧諸国も)の不思議。

 

とんでもない夢を追うわけでなく、現実を悲観するわけでもない。

怠慢ではなく、他を押しのけて行く種類の強さでもない。

かといって、諦めているわけでもない。

なぜか、ホッとする。

 

マクフィ一家を見ることで、この国民性、民族性の一面を見られたような気がした。

次回会うとき、マクフィは家庭を持っているかもしれない。その時またマケドニアの新たな一面を見させてもらえるだろう。そう願う。

 

(スロピエで)

 

 

 

 

7月6日(月) コソヴォへ

 

スコピエを後に、コソヴォ・プリシュティナへと向かう。

朝一で鉄道駅へ行くと、「国境までしか行けない」と言われる。

「昨日と違うことを言ってるじゃないか!」と文句を付けるが、「今日は今日」

らしい。ややもするとスコピエに戻り、ソフィア~ブカレスト経由でベオグラード入りし、そこからプリシュティナを目指すしかない。

それでも仕方ないと思いながら列車に乗り込む。

国境駅で降ろされたが、チケットを買い直し、同じ列車に乗り込

みコソヴォ・ポーリエ駅、バスでプリシュティナ市内(約10分)まで難無く着いた。

 

街の表情は5年前とほとんど変わっていない。唯一、街路樹が

多少成長した程度だ。

 

コソフスキ・ホテルに行ってみるが、やはり難民で満杯。「難民と

一緒で良いし、金も払うから泊めてくれ」と懇願するがダメ。

「私の彼が近くのアパートに居るから、泊めてもらえるかも・・・

5分待ってて・・・」と、フロントの女性。

 

15分ほど待つと、彼とともに現れる(彼はアルバニア人、彼女は

セルビア人)。

「俺の名前はロノ。1泊60DM。食事は出せないが・・・何日位

泊まりたいんだ?」。

「私の名前はマキ。1週間くらい。前払いする。外国人の私を泊め

て大丈夫?」。

「生活習慣が違うからな・・・2~3日様子を見させてもらう。合わなかったら出ていってもらう・・・」。

「そういう意味じゃなくてさ・・・セルビア警察の目が・・・」

「たぶん大丈夫だと思う・・・」。

「私はこの国に何度も来ているから大丈夫。料理も酒も口に合う

(美人も多いね・・・と言おうとしたが、やめた)。朝7時に起きて8時に外出、夕方8時に戻ってシャワーを浴びて寝る。それだけ」。

 

グランドホテル・プリシュティナのメディアセンターまで歩いて1分のアパートの3階。1階は雑貨屋、肉屋、薬屋。日当たりは悪いが生活には便利かもしれない。

 

翌日夕方、

「マキ!ちょっと来い・・・(キッチンにて)お前はいいヤツだ!今日から夕食を出す」。

この、ロノという男は現金で単純なヤツだ! 420DM(私が払った金)を手に入れたものだから上機嫌なのだろう。夕食を取りながら

「お前のお金のおかげで俺はギリシャに行ける。とりあえず明日、ベオグラードに発つ。合い鍵を渡しておく」。

「ギリシャ? ベオグラード? 何をしに・・・?」。

「姉が、アテネの病院に入院している。パスポートを取りにベオグラードへ・・・アルバニア人の俺には難しいだろうけど・・・」。

 

ロノが帰ってこない。気になりだした3日後、電話が鳴る。

「マキ? ロノだけど・・・」。

「今どこだ?」。

「まだベオグラードだ・・・俺はアルバニア人だから・・・まだなんだ」。

 

ロノとは、再会できなかった。

 

(プリシュティナで)

 

 

 

 

7月8日(水) 「ドーバルダーン」か? 「ミールディータ」か?

 

 

前回コソヴォに来た’93年は、英語で通していたので、さして気にはならなかったのだが(結構、英語が通じる)5年たった現在、多少はセルビア語を覚えたので、知ってる単語を適当に使って何とかコミュニケート出来るだろう。ところが今回、困ったことになった。

「ドーバルダーン!」と挨拶すると、いい顔されない。

「いや、俺はアルバニア人だ!アルバニア語で ”ミールディータ”というんだ!」と、言い返される。そうだ、ここはコソヴォだ。人口の90%以上をアルバニア人が占める。セルビア当局によるアルバニア語での学校教育を禁止したり、解禁になったり・・・。

「しまった!アルバニア語を、一言も知らない。」 あわてて、いくつかの挨拶と疑問詞を教わり使うことにした。それでも異邦人が、一言二言でもアルバニア語を使うと喜んでもらえた。

そう言えば数十年前、フランスに行ったとき「英語でしゃべって良いですか?」とフランス語で切り出すと、うまく行っていた事を思い出した。

(ちょっと違うか・・・?)

 

ミールディータ (こんにちは)

ディテネミール (さようなら)

ファリミネーレス (ありがとう)

ク オシュテ (どこ?)

ミルミンジェシ (おはよう)

リズィク (あぶない!)

 

しまった! 「Dobro!」 に相当する言葉を聞き忘れた(爆)。

 

一般市民はもちろん、タクシー運転手、チェバプチッチ屋、商店は

アルバニア人が多く。バス運転手、ホテル従業員、警察はセルビア

人が多い。セルビア人が ”おいしい仕事”を占めている感じがあるがセルビア人に言わせると ”商店の多くをアルバニア人が経営してるので、やつらは儲けまくっている。こっちはいい迷惑だ!”と言う。

 

それにしても最初の挨拶は何語を使うか迷ってしまう。石を投げるとセルビア人に、結構当たっている。

とりあえずセルビア語でしておいて、民族名を聞いてからアルバニア語で言い直している。

 

(プリシュティナで)  

 

 

 

 

7月9日(木) プリシュティナ~コソフスカ・ミトロビッツァ~

        プリズレンで見たこと。

 

 

コソヴォ自治州は大きく分けてプリシュティナ、コソフスカ・ミトロビッツァ等、東部を拠点としたセルビア治安部隊。ペチ、ジャコビッツァ、マリシェボ等、西部を拠点としたKLAといった勢力分布。その中間に位置する地域は、現地人の言う ”フリースペース”。なぜそうなのか・・・・山、丘ばかりで、大きな街など無く、ほとんど人が住んでない、と言う意味である。また、

そういった地域はボスニア内戦時の、ポサビナ回廊、ゴラジュデ回廊と同じように、ぎゅうぎゅう詰めのバスが行き交う。

 

東部の市街地、住宅街には砲弾が撃ち込まれている状況ではないので”内戦状態” とは言えない。入国(入州)も問題なかった。ただ、郊外へ抜ける道路、街と街とを結ぶ幹線道路には、検問やバリケード等が無数にあり、市民の動きを常に監視し各勢力互いににらみ合っているといった状況ではある。

 

それを示す典型的な例が、プリシュティナ~ペチを結ぶR-30という主要幹線道路。ルプシュニクをKLAが、コモランをセルビア勢が抑え、事実上コソヴォは東西に分断されている形だ。

こういった状況から、東西を結ぶ ”迂回ルート” が2本出現。”北部ルート”と ”南部ルート”。 

   

北部ルートとして、プリシュティナ~ミトロビッツァへ、更に北上し1度セルビア本国に入りロジャイまで西進、そこから南下し再びコソヴォへ入りペチへとつながる。

セルビア本国~コソヴォの ”国境” での検問がかなり厳しかったのはアルバニア人が多数乗車したバスが、セルビア本国入りするという状況から武器等の密輸を憂慮するという意味なのだろう。

 

バスという移動手段が残ってはいるものの、バス会社(公職はほとんど)はセルビア人が仕切っているため、アルバニア人乗客はおろか、日本人の私でさえ乗車を拒否されるといった ”いやがらせ” が、しばしばあった。対照的にタクシー運転手はアルバニア人が多い。乗車拒否された ”おこぼれ” をタクシーが拾う、といった光景は見られなかった。

 

セルビア治安部隊やKLAの「いつでもやれるぞ!」とでも言いたげな機関銃の連続音、砲弾の地響きは絶え間なく聞こえはしたが、高度に訓練された兵士の統率のとれた戦術、戦略と言うにはほど遠い、何かを標的にしてると言うより、

酔った勢いで、ぶっ放している、というような印象を受けた。

政府軍対反政府軍というニュアンスがふさわしい。

 

(プリズレンで)

 

 

 

 

7月13日(月) 陸の孤島か? 西部ペチ

 

 

北部ルートを使いKLAの拠点の一つ、ペチに入る。

ペチ市街、多くの市民や迷彩服姿の兵士までもが木陰のカフェで

談笑する姿を見ると、近郊での戦闘がウソのようだ。

だが、市民と会話を始めるとセルビア人への、アルバニア人への

鬱積した何かが一気に吹き出し、全く出口が見えない状況が手に

取るようにわかる。

 

東部地域を廻っていた時、セルビア人バス乗務員から”乗車拒否”

を喰らった時と同じように、ここペーチでも似たような状況に遭遇。

ベンチで一服していた私に向かって「ここはセルビア人の土地だ!

セルビア人以外は出て行け!」 口からアワを飛ばしながら怒鳴っ

た50歳くらいの女性。セルビア人によるアルバニア人排斥と言う

より、セルビアの土地に住める者はセルビア人のみとでも言いた

いのか? ヒトラーの「一国家、一民族」ではあるまいし・・・。

追い詰められた状況はセルビア人にとっても同じか?

 

一方、郊外に出ると打って変わり、そこはスナイパーストリート

そのもの。デチャニ~ジャコビッツァ結ぶ国道R-30がそれである。

デチャニは6月末、セルビア警察特殊部隊により陥落した村。

ほとんどの住民はアルバニア本国に逃れ、事実上、民族浄化

された。いまでは数人のセルビア人住民が残ってはいるものの

廃墟、無人の村といっていい。

 

その村とジャコビッツァへの国道R-30の支配権を持ち死守する

セルビア治安警察、奪回を挑むKLAが周囲を包囲、という構図。

林、茂みに囲まれた石畳のその道は、まさにKLAにとって待ち

伏せ攻撃するに打ってつけ。ジャコビッツァへ通ずる道はもう1本

あるのだが、それでも何故か多くの車やバスがこの道を通る。

アルバニア住民が置き去りにしていった家畜が、猛スピードで

走り抜ける車にひかれ、死体が散乱。村には死臭が立ちこめて

いた。ペチ~クリナ間も同じ事が言えた。

 

デチャニは、残された数人のセルビア人住民と村をセルビア治安

部隊が死守してはいるものの、ペチ、ジャコビッツァ市民にとって

は大都市へ通ずる幹線道路がこのような状況で、人、物資の移

動が困難である以上、陸の孤島としか言わざるを得ない。

そういった意味からすると、ボスニア内戦時のバニャ・ルーカ、

ビハチと同じ事が言える。

 

 

“おこぼれ”の人の移動手段

 

「待つ」のです、来るまで。

私も彼らと共に待ちました。8:45プリシュティナ行きに乗せて

もらえずに・・・。案内所、切符売り場、運転手皆言うことが違う。

これも”嫌がらせ”なのか? 単なる”いいかげん”なのか?

13:00に来るらしいとのこと。14:00に来ました。

4時間以上、彼らと共に待ちました。

更に・・・途中、そのバスをヒッチハイクする人が何人もいた。

彼らは、もっと待っていたのだろう。

 

(ペチで)

 

 

 

 

7月15日(水) ペチの丘で

 

 

旧ユーゴ通いを始めてから、訪れた街を離れる前日の夕方には、

必ず街全体を見渡せる丘に登ることにしている。

大都市は別として、旧ユーゴのほとんどの街は必ずと言って良い

ほど丘や山に囲まれている。きな臭い情勢ながら、夕方そこで

ボーっと街を眺めていると、なぜかホッとする。

 

サラエヴォ・ドブリニヤ地区のモイミロの丘や、メジュゴーリエの

クリューゼワッチュの丘が印象に残っているが、ここペチの丘(名前不明、バスターミナルから見える北側の丘)がNO1だ!

 

登るのに、へぇ~はぁ~へぇ~はぁ~言いながら20分位かかる。

形状はモイミロの丘に似ているが、もっと大きく美しい。

丘は更に北へせり上がり、高い西側の山、南側は市街地で彼方

まで平野が広がる。白い壁、オレンジ色の屋根の家々が地平線

まで続く。平地と丘、山の高低差が激しいので常に風が吹き涼しい。

そして彼方からは、砲弾や機関銃の連続音・・・(苦笑)。

 

丘の上では、夕涼みの人たちでごった返している。

ビールを飲んだり、サッカーをしたり・・・。何かの祭りか?と思ったが、夏の夕方は毎日こうなのだという。

 

実は今回の旅では、子供達を避けていた。

「ドクレ シティ? (どこから来たの?)」 

「ゴボリーテ エングレスキ? (英語話す?)」

「ナカァータ (中田)、カヴァガァーチ(川口)」

金魚のウ○コではあるまいし、私の後を追い回し、その行列を見た

別の子供もまた列に加わる。全員がこの3つの疑問文を繰り返す。

「だから何なんだっ!」 カメラを構えれば、「何してるんだ?」と私の周りを取り囲む。「邪魔だからあっちへ行け!」 言うことを聞かない。うっとうしっいったらありゃしない。だから今回は子供の写真が少ない。

 

ペチの最終日だから丘に登ってみると、ガキ、ジャリ達が2~300人くらい集まっていた。今まで避けていた分の ”つけ” が一気に廻って来た感じだ。どっと取り囲まれた。これには参った。ボーッと考え事をするどころではなかった。はいはい、私が悪かったです。これからは子供も適当に相手にします。

彼らと一緒に遊び、ペチ最終日は終わった。

 

美しい街だった・・・。

 

燃えるときも、美しいのだろう・・・。

 

いや、そうあってほしくない。

 

(ペチで)

 

 

 

7月17日(金) サラエヴォ  オフ

 

 

「のんびり行こうが、急いで行こうが“疲労”というものは移動した

距離に比例する」と何かの本で読んだことがある。

 

いくら車窓が美しいとはいえ、いくら楽しみにしていたサラエヴォ オフ とはいえ、丸々2日間バスの中というのもきつかった。

 

8:45ペチ発ミトロビッツァ行きに乗せてもらえなかった。

理由は私がセルビア人でなかったから・・・。同じように乗せてもらえなかったアルバニア人と共に次のバスを待つこと4時間。

14:00発ロジャイ行きに乗せてもらえた。

ロジャイでミトロビッツァ行きに、ミトロビッツァでプリシュティナ行きと乗り継ぎ、やっとの思いでロノ宅へたどり着いた(彼はまだ帰ってない様子だった)。

 

メディアセンターに顔を出すと、ジャーナリスト仲間からのFAXが届いていた。「2日間も待っていたのよ」と広報の女性。

なんか、いいなあ! こういうの・・・。元気が出た。

 

翌日、バスターミナルで私の乗るバスを探す。やはり「スルプスキ

サラエヴォ」 行き。「ビシェグラードでは止まらない」と運転手が言っていたので、おそらくハラスニッツァあたりでBiHバスに乗り換えるのだろう。

 

ユーゴ~ボスニア国境の検問がやたら厳しい。

乗客全員降ろされる。カバンをズラッと並べ、その前に立たされ中身総チェックを受ける。スーツケースなら「本を開く」ようにすれば良いがリュックの私はさあ大変、アセだくの作業だった。

 

車中、やたら暑い。でも何故か皆、窓を開けない。たまりかねた私は

ガガッと開けると「何をするんだっ! 閉めろっ!」 「暑いじゃないですか!」と言い返したら、何かわめき散らしていた。

ポーランドでも同じ事があった。友人に聞くと・・・「風は気持ち悪い」とか「窓を開けると危ない」とか言っていたが納得できる理由でない。

 

テレベビッチ山頂で降ろされると、BiHバスが待っていた。

全員が乗り換え、20:30 無事サラエヴォ駅に着いた。

実に、12時間のバスの旅だった。

 

さて、これからが大仕事だ。合流の約束をしていた、Kさんを捜さなければならない。

事前に打ち合わせておいた“ペンション トレイン”にチェックイン。

「私を訪ねて、日本人が来たでしょう?」

と女性従業員に聞けば、紙切れを渡される・・・Kさんからのメッセージだった。

彼の滞在先が2件書いてあった。

 

 

「もしもし、わたしは、まつむらと、いいます。にほんじんです。

Kというにほんじんは、います・・・か?」。

「彼はモスタルに行ったよ!」。

「こんや、かれは、あなたの、いえに、とまるんです・・・か?」。

「荷物を持って出たからね・・・」。

「ありがとお、さよおなら!」。

 

 

帰って来るとすれば“ホテル ボスナ”だろうと、飛び出した。

タクシーを捕まえ

「5DMでホテル ボスナまで行けるかい? 急いでるんだ!」。 

「モージェ!」。

 

Kさんは帰ってなかったが、チェックインはしているようだ。

やっと安心出来た。向かいのカフェでビールでも飲みながら

待つことにした。

 

5分もたたぬうち、日本人出現。 おお! Kさんだ!

 

彼お薦めレストランでサラエヴォ オフは開かれた。

2日間のバス疲れなど、忘れていた。

 

(サラエボで)

 

 

 

 

7月20日(月) ビシェグラードへ

 

 

イヴォ・アンドリッチ“ドリナの橋”を読んで以来、いつかはこの

「ドリナの橋」を見たいと思い続けていた。

現地入りする度に時間が無くて実現せず、今度こそ、今度こそと

今回やっと実現した。

 

サラエヴォ市内からはバスは出ていない。一端、ルカッビッツァ

まで出ると(タクシー)18:00発、ニーシュ行きのバスがあった(ルカビッツァに限らず、スルプスキ・サラエヴォならどこでも良い、ハラスニッツァ、パーレ等)。

 

” 東欧見聞録 、佐藤健 、毎日新聞社  P187~ ” の様な

チュプリアとのご対面を期待していた。しかし良い意味でバッチリ

裏切られ、自分なりのチュプリアとの御対面が出来、ホッとした

と言うか・・・感無量と言うか・・・。

 

バスは山岳道路をくねくねと、いくつものトンネルをくぐり抜け、

ビシェグラードを目指す。私が「ビシェグラード・・・チュプリア・・・」

と騒ぐものだから、運転手も呆れて「あと3つ、トンネルを抜けたらビシェグラードだ!」と教えてくれる。胸の鼓動が高鳴る。

夜9:30、山間部なのでもう真っ暗だ。

 

「どう御対面しようか・・・? とりあえずホテルに直行し、明日朝一で・・・」色々考えながらトンネルをかぞえる。

最後のトンネルを抜けた。

 

突然、ライトアップされたチュプリアが目に飛び込んでくる。

思わず息をのむ。

「あれがチュプリアですか?」

「そうだ!」

あと500m位。徐々にチュプリアに近づく。思っていたよりはるかに大きい。運転手が気を利かせてくれ、私をチュプリアの目の前で降ろしてくれる。

「ここで良いだろう? 橋を渡ってすぐ左側にホテルがあるから・・・Srecan put !」

ち ちょっと待ってくれ!・・・いくら何だって・・・そ そりゃないだろ!

心の準備が出来てない。

 

おそるおそる、橋の上を歩き始める。対岸のサーチライトが眩しく

足下が全く見えない。ふと振り向くと、後ろの山肌に私の陰が映っている。とんでもない光量だ。カメラバッグからペンライトを取り出し、足元を照らすが、景観と不釣り合いなのでやめた。

 

橋の上は夕涼みの人たちでごった返している。近くのレストランで

は、ドラム、ベース、アコーディオン、バイオリンというおかしな編成でバンド演奏している。「今日は何かの祭りか?」と思ったが、翌日も同じだった。

 

運転手からおそわったのは ”ホテル ビシェグラード ”。

なんと ”カテゴリー D ”。 こんなの聞いたこと無い!

案の定 「シャワー、トイレ共同。11:00~15:00は水さえも出ない。

 

15:00~は、水は出るが温水はわからない!」 とフロントの女性。

(ボスニアでもRS側の方がこの傾向が強い。初めてRS側へ行く方は

そのつもりで)

 

それにしてもこのビシェグラード、ライトアップされたチュプリア、バンド演奏が響きわたる渓谷、難民センターのようなホテル・・・イメージとは全く違っていたが、不思議と違和感は無かった。

 

翌日、朝から橋のたもとのレストランに居座り、チュプリアを眺める。

光の具合により、様々な表情があると聞いていたからだ。

橋脚のアーチの部分に出来る陰が、太陽の位置により様々に変化

する。またその橋を渡る人々がアクセントを付けている。朝の人混み。

強い日差しを避け、ほとんど人影のない昼。また、朝とは全く逆の陰が出来る夕方・・・。

 

数人の若者が私に近づく。

「モーターボートを持ってるんだけど、一緒にビールでもどうだい?」

おお! 運がいい! と言おうか、呑気なヤツらがいるもんだ!

ビールを飲みながら、ドリナの川下り・・・

チュプリアをくぐる・・・Dobro !

 

チュプリアを下から見たからには、上からも見よう。

タクシーの運転手に 「ビシェグラードの街全体を撮りたいんたけど、あの山の頂上まで行けるかい?」

オスマントルコ時代のトーチカがあり、そこまで往復30ディナール。

頂上から見るビシェグラード・・・ドリナ川・・・チュプリア・・・。

 

その都度、イヴォ・アンドリッチの一節を思い起こすと、その歴史の

重厚さから、益々この国に、はまって行きそうだ。

 

(ビシェグラードで)

 

 

 

     ● ● ●        ● ● ●

 

 

 

 

バルカン日記 ’99 夏

 

6月20日(日) 幸か不幸か、アテネ

 

予約を入れたルートが偶然、コソヴォ停戦発効と一致し、

自分が撮りたいと思っていたイメージと現地の状況が大幅に違ってきたようだ。

いつになく不安な出発である。

同日乗り継ぎでティラナ入り出来るという理由で英国航空を使ってみたが、

アテネ行きと言うこともあってか、パックツアー特有の乗客がひしめき、散々だった。

そう言えば、KLMオランダ航空を使ったときも同じだった。

高い金を出すのなら、アエロフロートのビジネスクラスのほうが余程良い。

幸か不幸か、乗り換えの待ち時間からアテネ半日観光が実現した。

市中心街を歩けば、すごい交通量。

バイクと車が半々(バイクは圧倒的にKawasaki製、それもノーヘル)。

ビルの谷間からは古代遺跡が迫り、エーゲ海からの潮風が心地よい。

極めつけは、街を行く人々の顔が彫刻のガチガチな顔立ち。

おかしな街、アテネだった。

 

(アテネで)

 

 

 

6月21日(月) 1日遅れでティラナ入り

 

オリンピック航空117便のフライトキャンセルで、

1日遅れでティラナ入り。

いきなり空港で信じがたい光景を目にした。

手際の悪い入国管理官を無視し、イミグレを強行突破する人人人。

さすがバルカン、さすがアルバニア、何でもありだ。

ここでパスポートにスタンプをもらっておかないと後々厄介なことになる。

以前、ジャーナリスト友人が陸路入国したときも混乱していた時期で、後でひと悶着あったと書いていたので、ひたすら待った。

空路で僻地入りする度に困るのは、市内への格安バスが無いことだ。

以前、今井一氏(Czesc ~ うねるポーランドへ ~ 朝日新聞社 の著者)が、WPBで書いていたのだが、

「到着ロビーを出たら、出発ロビーへ向かう。そこで市内へ戻るタクシーを捕まえれば、到着ロビーのタクシーより半額位安くなる」

しかし、私はこの方法で成功した事がない。

信じられないくらいの悪路(舗装はしてあるが、おそらく20年以上無修理のままだろう)、見たこともないほどの荒廃した田園地帯を抜け市内入り。

「安くて良いホテルを知っている」と言う若いタクシードライバーが連れてきて

くれたのは ”ホテル クリスタル」。ツインを1人で使って50DM。

まずまずの1日目である。

街は予想通り帰還する難民や車でごった返していた。こんなの見るの初めてだ。

中心街にある市民体育館が難民センターになっていたが、半数近くは帰ったと言う。

Muslim Hands という団体とアルバニア・マフィアが難民を帰還させるために、バスやコンビバンを1日2本出していた。

そのMuslim Hands の責任者に「もし、明日のバスに空席があったら乗せて欲しい」と頼むと、OKがでた。

明日、難民と共にコソヴォ入りしよう。

 

(ティラナで)

 

 

6月22日(火) 山越え400DM

 

帰還バスに同乗させてもらえる約束を取り付けたものの、半信半疑で例の体育館へ行く。

帰還予定者リスト全員が乗り込んだのを確認し、出発直前にヒョイとステップに飛び乗り、立ちっぱなしでも良いと思っていた。が・・・案の定。

乗客よりも、その荷物たるや・・・鰯の缶詰状態だった。

「ノビナール! ノビナール!」 ここが空いている、とでも言いたげに私に目配せする男が数人。が、Muslim Handsの責任者に「残念だが・・・」

ポンと肩をたたかれやむなくバスを見送った。

残された唯一の方法 - アルバニア・マフィアのコンビバン - で。

5台待機していた中から身長の一番低いドライバーを選び、見下ろしながらまくし立て、値切り交渉をしていると「ワシらも一緒に・・・頼む・・・」と1人の男。

私が最初にドライバーに声をかけたときが1人400DM、それを200DMまでに下げることに成功した矢先・・・彼の家族・・・。

約一時間の交渉の末、彼の家族5人と私で400DMに。

「プリズレンまで14時間かかる」と言うので今すぐ出発する事に。

この時点で私は当然の如く、彼の家族5人と割り勘だと思っていたのだが、「50DMしかない」と言う。「やられた!」途方に暮れて、気が付くと・・・。

荷物を積み終え、バンの中の子供達が今か今かと私たち2人を待っている。

既に正午を過ぎている、時間がない。

とんでもない悪路、と言おうか・・・獣道と言った方がよい・・・を土砂降りの雨の中、車を飛ばす。

明けて深夜1:00、プリズレンに着く。

 

(プリズレンで)

 

 

 

6月22日(火) 「Language is no probrem. They are  

          probrem」

 

アルバニアからの山越え400DMは高くはなかった。

あれだけの悪路、ガードレール無し、土砂降り、しかも夜道を常に80kmで飛ばした 。崖っぷちでいくつもの花束を見た。おそらく転落事故があったのだろう。

途中、タイヤのパンク(交換なんと4分!)、夕食(例によって山羊の丸焼き)に寄っただけで深夜1:00には無事プリズレン着。

生きていたのが不思議なほどだった。

「宿をどうしよう」一服しながら例の家族と思案していると数人の若者がスケボーで現れた。理由を話し、一夜の宿を借りられることに。

その若者に続き、後を歩く。電気は有るようだ、街灯がついている。

破壊された住宅街がぼんやり映し出される。一人歩きではないのに心細い。1キロほど歩いて彼のアパートに着く。

ラキアを飲むときは、なぜか空腹時が多い。

取材に来たときも、日本でも。

「お腹空いてる?」空腹だったのだが、このご時世しっかりした食事はねだりづらい。

「ちょっとのどが渇いた」と言うとラキア、グリコポッキーにそっくりなやつ、謎の白いキューブを持ってきた。仲間の失敗談から、その白いキューブは食べたふり。

英語やら、セルビア語やら、アルバニア語やら気を使ったつもりで彼の家族、例の難民一家、私、そしてラキアと共にたわいもない話しをする。

「悪いね、イヤな言葉使って。日本にね、良いアルバニア語の辞書無くてね。」

「いや、気にするなよ! Language is no probrem . They are probrem!」

初めて聞いた言葉に、ラキアが醒めた。

 

(プリズレンで)

    

 

アルバニア語をいくつか

こんにちは     ミール ディータ

おはよう      ミルミン ジーシ

お休みなさい    ノトネ ミール

はじめまして    トゥスカ イーメ 

さようなら     ディテネ ミール

ごめんなさい    レフジズ

はい        ポー

いいえ       イョー

何?        シカー

誰?        コイエ

いつ?       カダクール

何時?       ソーソーティ

いくら?      サクシトン

私の名は~     ウ ネ チュエン

 

 1   ニヨン

 2   ドゥ 

 3   トレ

 4   カトル 

 5   ペンス

 6   ジャシュトゥ

 7   シタットゥ

 8 テットゥ

 9   ノントゥ

10   レットゥ

 

 

 

6月23日(水) 再会(1)

 

AM5:00にセットした目覚まし時計に起こされる。

気が付くと例の難民一家がいない。「30分前に出発したよ」

彼らが家に着くまでを撮ろうと思っていたのに・・・」

ちゃんと約束しておけば良かった。しかし、プリシュティナの

ロノ&キーマの事も心配だったので気持ちを切り替える。

取材に来て、宿に困って民家に泊めてもらえた時、翌朝の別れはいつも胸に迫るものがある。

礼を言い、再会を約束して出発した。

バスターミナルに着けば、いるはいるは・・・難民が。

私と同じように通常の路線バスで帰る者、チャーター(?)したトラクター耕運機で帰る者、途方に暮れる者、ロビーに居着いている者・・・。

いくらごった返しているとはいえ、我先に・・・・と言った混乱は無かった。

そんな彼らを撮っている内に出発時間になった。

今度は金を払って乗るバスだ、絶対に乗れるゾ!

コソヴォの風景の中でも、結構気に入っているプリズレンの街を抜けるとロノ&キーマの事が気になりだし、プリシュティナまでの道のりはじれったかった。

昨年7月に同じコースを走ったとき、4時間近くかかったのに対し、今回は2時間弱だった。しかし、そんな事はどうでもよかった。

 

プリシュティナのバスターミナルは跡形もなく焼け落ちていた。

市民は「NATOの空爆だ!」と言っていたが、どうだろうか?

爆弾が横から当たっ痕がある。戦車か何かだろう。

そんなことを考えながら、人通りの少なくなった通りを気ぜわしく歩き続け、やっと彼らのアパートにたどり着いた。

「Do you want to sleep my house ?」

裏庭でサッカーをしていた子供達が私に話しかける。住人がいるのだ。

そう言って外国人ジャーナリストを泊めて、日銭にしているのだろう。

「このアパートに、キーマさんていう人いるよね?」。

「知ってるよ」。

ドアの前に立つ。思えばこの5月、何回電話してもつながらなかった。        

胸の鼓動がやや高まる。いるのだろうか? 無事なのだろうか?

ドアをノックした。

 

(プリシュティナで)

 

 

 

6月23日(水) 再会(2)

 

ドアを叩こうが、ベルを鳴らそうが応答がない。

「やっぱり・・・どこかへ逃げているのか・・・?」

隣の部屋の人なら何か知っているだろうと思い、ドアを叩く。

「あのぉ~ おとなりの ロノ&キーマ のことを なにか しってます か?」

「セルビア語は分かりません、私たちはトルコ人なので・・・。

トルコ語か英語で・・・」

「お隣のロノ&キーマ一家は不在ですが無事なんでしょうか?」

「あぁ、あなた部屋を間違ってるわよ。彼らはこの上で元気よ。私たちはこの5月の一ヶ月間、ずっと地下室で一緒だったわ。」

「今もいますか?」

「さあ? もし居なかったら、またここにいらっしゃい、お茶でも・・・。」

「ありがとう」

階段を2段飛ばしで駆け上がること4秒後、

「ロノ! キーマ! マキだっ! 開けろっ!」

右手にピストルを振りかざしたキーマが現れた。

 

「心配したよ~。5月上旬、何回電話しても出ないんでどこかへ逃げたのかと思ってた。ロノの姉がアテネにいると聞いていたんで、アテネに逃げたのかも、と思ってた。」

「このアパートの住人のほとんどは、地下室で過ごしたんだ。一ヶ月も。」

「ああ、下のトルコ人夫婦に聞いた。最初、部屋を間違ってね・・・。

食料は?」

「ロノがカフェのウエイターをやってて、生活費は彼が。俺は貯金をはたいてこれを買ったんだ(ピストルと手榴弾2個)。皆を守るために。

これはもう一生手放さない。このアパートの住人とマキと日本人は信じるが、他の外国人はもう絶対に信じるもんか!」

「そんな目くじらを立てることも無いだろう?戦争終わったんだから。」

「終わったって? とんでもない!」

ちょっとやつれた妻ファティミラが吐き捨てるように言った。

返す言葉もなく、だだうなずくしかなかった。

なんとなく居づらくなり、ロノのカフェへ向かった。

  

 

「マキ、すまない。1年ぶりに皆そろっての食事なのに・・・

大した物が出来ないんだ。本当に、すまない」。

「気にするなよ、こっちの食べ物は何でも好きだし・・・皆元気で再会しての食事は幸せだよ」。

「実は・・・苦しいんだ。今回は・・・今回だけは本当に苦しい。

次の取材は? いつ来る? その時に返すから・・・いくらでも良い、援助してくれないか?」。

「いいよ、そのつもりだったから。少し余分に持ってきた(300DM渡す)。

でもさ・・・そのピストル売った方がカネにはなるんじゃない?

よせよ! それ! もう大丈夫だと思うけど・・・」。

「マキ!(突然怖い顔になる) 全然わかってないじゃないか! 

お前、この国に通いはじめて何年になる! 何を見てきた! 

さっき言った通りだ!」。

「それじゃあ同じ事の繰り返しじゃないか!」。

「何が言いたいんだ!」。

「remember・・・ と no more・・・ をうまく使い分ければ・・・日本とアメリカの関係を知ってると思うけど、 remember pearl harbor と no more hiroshima という言葉がある。

それをひっくり返して remember hiroshimaと no moer pearl harborにするとうまく行く場合がある」。

「それは、日本とアメリカだから・・・」。

「いや、終戦を迎えた国のキーワードだと思うけど・・・」。

「マキ! 戦争は終わってないのよ!」。

ファティミラに再びたしなめられた。

愉快な夕食には、とうとう、ならなかった。

 

(プリシュティナで)

 

 

 

6月24日(木) ヴチトゥルン ~ 音の無い村

 

プリシュティナ・ドラゴダン地区の丘から市内を眺めていると、

突然の目眩に襲われ、かがみ込んでしまった。

野良仕事をしていた老婆に助けられ、家で休ませてもらう。

落ち着いてから何となく話しをしているうちに車のことを相談する。

プリシュティナ ~ ヴチトゥルン ~ マケドニア国境 というルートを200DMで引き受けてくれた。

 

「無音室」- 外部からの音は完全に遮断、内部の音も全て吸収する特殊な壁、天井、床の不気味な部屋。

ヴチトゥルンは無音の村だった。人がいない。

自分の足音は、空気の振動が鼓膜を振るわせるのではなく、足、体を伝わって直接、鼓膜へ行くようだ。

砲撃の痕も銃痕も無い。

焼け落ちてもない。

ましてや、化学兵器で人間だけ・・・でもないだろう。

ただ「追い出された」のだろう。

「朝7:00過ぎ、他の街だったら活気、喧噪の始まる頃なのに・・・」

そんな事を考えながら、もう2時間近くも歩いている。

のどが渇いた。

5階建てアパートの上の方から人の気配を感じた。

身の毛もよだつ思いだった。

やっと息吹を感じた。

洗濯物が干してある。だれか居るのだ。

ベランダに出てくるのを待ったが、一向に姿を現さない。

部屋まで行って、ドアを叩いてみることに・・・。

ダメだ、アパートの入り口には内側からバリケードしてある。

「何とかして会ってみたい。」

再び通りに出て、そのベランダに向かって大声で挨拶してみる。

とうとう出てこなかった。

しかし、住人は窓ガラス越しにきっと私を見たはずだ。

遠くから轟音が響く。

KFORフランス軍部隊だとわかる。

先導車両を強引に止める。

「この村には住人が居るのだろうか?」

50~53人のアルバニア人がいて、水くみと薪集めくらいしか

外出しないらしい。

「水くみ場に行けば誰かしら居るだろう・・・」

喉もカラカラだ。

その水くみ場が見つからない。

せめて自分の喉の渇きでも潤そう・・・。

空き家の台所に忍び込もうとすると、誰が書いたのか「MINA!(地雷)」。

が、その家の庭に姫リンゴがたわわに実っていたのに救われた。

枝ごとへし折り、安全な場所でかじりつく。

「和平協定が発効して何日目だろうか・・・?

難民の帰還が始まって何日目だろうか・・・?

どうしてこの村には誰も帰って来ないのだろうか・・・?」

喉の渇きは潤わなかった。

鳥肌も治まることはなかった。

姫リンゴをかじる音しか聞こえなかった。

 

(ヴチトゥルンで)

 

 

 

6月25日(金) 帰らぬ昔の、あの日あの場所に

 

ティラナから始まった今回の旅も、クケス ~ プリズレン ~

プリシュテイナ ~ ヴチトゥルン ~ スコピエ ~ 

そして、テッサロニケで終わろうとしている。

現地入りすると先ず最初に「とにかく体力の消耗だけは最小限に!」

と自分に言い聞かせる。

しかし、その為にお金を使う→体力、時間に余裕が出来る→頑張り過ぎる。

という悪循環の構図が今回もあてはまってしまった。

 

長距離列車のコンパートメントで横になりたかった。

クック時刻表によると、スコピエ ~ テッサロニケ間は1日2本。

しかし、駅に行けば「国境封鎖」とのこと。やっぱり・・・。

所持金残り300DM。タクシーでもギリギリ。

幸い、国境ゲブゲリアまでのバスがあった。

何とかギリシャ入り。

一瞬、自分の目を疑った。

またしても・・・いるわ、いるわ難民らしき一行が(20~22人)。

こんな所にも・・・。

以前「軍事研究 ’98年10月号」に投稿した記事の中で、

コソヴォ紛争拡大後の周辺国の動き、難民の流れ等を少し書いた。

小規模ながら現実と化していた。

しかし、彼らが「帰れる」状況になっただけでも幸いである。

例えば、一つの民族が大挙して「流浪の民」と化せば、正に「民族の大移動」。

しかし、今回ばかりは“居場所がない”。

 

何度か目が合った初老の紳士が私に近ずく、

「ジャーナリストかね?」。

「ええ・・・ひょっとして、コソヴォの方々ですか?」。

「ああ、そうだよ!」。

「ずっとここに?」。

「いや、知人宅にね、厄介になってたんだ」。

「これからコソヴォへ?」。

「ああ、お前はコソヴォからだろ?どうだった?」。

「どうだったも何も・・・帰ってどうするんですか? メチャクチャですよ・・・

街も、家も。お金も、仕事も・・・どうするんですか? しばらくこっちに居た方が・・・」。

「でも、奴らは居ないだろう?ここよりもマシ・・・それだけで良い」。

「いろんな所で、いろんな人から聞きましたよ、その言葉・・・。

でも『昔は皆、仲良かったのに・・・』って、これも何度も聞きました」。

「もちろん! 忘れたくないね! もし・・・If・・・ possible ,

We wish to return to the good old days , the very same day , the very same

place .」

 

(テッサロニケで) 

 

 

M氏の地球儀

A terrestrial globe of Mr, M

 

松村真基雄

 

〜 欧州の火薬庫と言われるバルカン半島 〜

〜 聖地と言われるエルサレム 〜

〜 自称独立国の独立記念日  ⑴  ⑵  〜

 

 

聖地といわれるエルサレム

 

「パスポートを出せ。サングラスを外せ。どこのホテルだ? 滞在期間は? ジャケットを脱げ。ウエストポーチもだ。このバッグの中身は?開けろ!武器は?」。

更にボディーチェックを受ける。この間約5分。空港の手荷物検査の話ではない。

ハンバーガーショップ“マクドナルド”に入店するためのイスラエル兵によるセキュリティーチェックであった。

 

 

 このマクドナルドに限らず、人が集中する所(バスターミナル、銀行、郵便局、繁華街、観光スポット)、そしてパレスチナ自治区から出る時、ユダヤ人入植地に入る時等々。‘04年8~9月に訪れたイスラエルでは、空港チェックイン~取材~出国まで散々なセキュリティーチェックを受けた。この過剰防衛とも言える安全策は、イスラエルの歴史的背景からの産物には違いない。そしてその最たるものが、歴史的建造物とでも言える“分離壁”であろう。

 

 ‘02年6月に始まった第1期工事(西岸北西部)は‘03年7月に完工。「テロ阻止を目的としながら、一方で土地接収や移動制限を強いている」との理由から、国際法違反と判断した国際司法裁の勧告を無視し続け、第2期工事では南東部の壁を建設中だ。ことさら、エルサレム南東部の現場ではイスラエルの正当性を見いだすのに、不明な点がいくつかある。

建設現場に作業員、建築機械、資材等まばらで作業中とは言いがたい。

壁は連結しておらず歯抜けのよう。また隙間のある箇所も多く、人、車の往き帰がある。

イスラエル兵による検問やパトロールもあるが、常時ではない。追い返される時もあるが、ノーチェックだったりもする。

総じて、テロリスト侵入阻止を目的としながら、その緊迫感や効果が見て取れないのだった。

 

 高さ9.2mのコンクリート壁が持つ威圧感はかなりのものだった。しかし、これほどボロボロ崩れる脆いコンクリートを見た事が無い。

大した基礎工事も無く、ブルドーザーを通した後にドミノでも並べるかの如く、壁1枚1枚を“置いただけ”。

 パレスチナ人でありながらも、壁建設現場で働くダーレックさん(43才)は

 

「『恒久的なものでなく、数年後には取壊す』とするイスラエルの声明を聞いた事がある。見ての通り大袈裟で、デタラメなものだ。だから『いつでもやってやるぞ!』のような意味のパレスチナ人への嫌がらせと、『これ程までにテロに怯えている』といった意味の国際的批判をあしらう絶妙な駆け引きなのだろう」と語った。

     

 

 

 

 

■ 通称“ピタニ ゲート”

 

 「タクシータラバーッ!タクシータラバーッ!(あなたのためのタクシーですよ!)」。タクシー運転手達が、客引きの大声を上げる。

‘04年8月朝8時。通称“ピタニ ゲート”は、アラブ パレスチナ側からエルサレム パレスチナ側へ、分離壁の隙間をくぐり抜けて来た人々と、彼等をエルサレム市内まで送るタクシーやバスでごった返していた。

 ピタニ村(地元の人々は、こう呼ぶ。イスラエルの地図上の名称はアザリヤ)とエルサレム市内を結ぶこの道路が、壁で突然分断されたのは10ヶ月前。村とはいえ、エルサレム市内まで車で10分。人口6000人、銀行が6行もあれば、立派な“町”ベッドタウンである。貧弱な道路の割合には、かつての交通量は多かった事だろう。しかし、東にユダヤ人入植地のマーレ アドミム村。南は砂漠とも言える荒野を挟んでベトレヘム。この地理的要因は北から西にかけて分離壁が建設された事によって、住民は孤立をも余儀なくされている。

 特に目立って不自由強いられているのが、旧市街ダマスカス門辺りの市場まで働きに行く女性達だ。

パンパンに詰め込んだハーブの包みを頭の上に乗せ、更に季節の果物を詰めたビールケースのようなプラスチック箱を紐でガラガラと引きずりながら、ピタニゲートまでやって来る。仲間と共に瓦礫を跨ぎ、壁の隙間を潜り抜け、やっとエルサレム行きのアラブバスに乗り込める。イスラエル兵の検問が敷かれた時などは、そんな彼女等5~60人が立ち往生だ。また最近では、欧米の団体ツアー客がこの状況を見学に来る有様で、全く商売上がったりだ。

 

 

■アラブ・パレスチナと

エルサレム・パレスチナ

 

 ‘02年6月に開始された、テロリスト侵入阻止を目的としたヨルダン川西岸地区分離壁工事は当初、グリーンラインに沿って建設予定だったとされる。しかし、ユダヤ人入植地をイスラエル側に取り入れるように蛇行し、第1期工事分(北西部)が完工した。

 引き続き始まった第2期工事で、エルサレム南部の分離壁工事現場を見ると、ことさら領土的野心、人の移動制限を目の当たりにする。

なんと、パレスチナ人居住区をも分断するルートで建設中なのだ。それは“エルサレム・パレスチナ人地区”と“アラブ・パレスチナ人地区”なる居住分布まで出現させた。

 エルサレム・パレスチナ人がアラブ・パレスチナ人地区入りするのは自由だが(アルアクサ大学通学生など)、アラブ・パレスチナ人がエルサレム・パレスチナ人地区入りするのは、気まぐれ的にやって来るイスラエル兵による検問で阻止される事がある。これがピタニゲートで繰り広げられているのである。

 更に憂慮される問題として、身分証の没収である。分離壁建設以前のアラブ・パレスチナ人はエルサレム市内に通勤、通学するという条件の下、イスラエルの身分証が発給されていた。分離壁及び検問で、その条件が満たされなくなった者が身分証を没収される事態が起きているのである。検問通過はおろか、転職・転居さえ制限されているという事だ。テロリスト侵入阻止の目的からは明らかに逸脱した行為で、正当化の根拠をどこにも見いだせない。

 

 

■ イスラエル化

 

 「分離壁を認めている訳ではないが、第3次中東戦争後の人口増加による居住分布の変化を考慮した上で建設を進めるのであれば、他のルートを通っているはずだ」。

アラブ・パレスチナ人地区でタクシー運転手をする、ビクトル・ザロールさん(37才)は言う。

 確かに、西岸地区北西部では、ユダヤ人入植地をイスラエル側に取り込むように壁を蛇行させている。一方で、ここピタニのようにパレスチナ人居住区を分断させたうえに、そこをもイスラエル側に取り込もうとしているのはどういう事なのだろう。そう考えると、いずれエルサレム・パレスチナ人をアラブ・パレスチナ人地区に追いやり、空いたエルサレム・パレスチナ人地区のイスラエル化を完結させるというシナリオなのではないか?「どこで、どのような生活をしろと言うのか?」とピタニの人々は恐れている。

 「防御フェンス(イスラエルはこう呼ぶ)はテロリスト侵入阻止に貢献。検問による移動の制限も当然の結果。土地の接収はテロの犠牲者数を考慮した妥当な範囲」。とするイスラエルの主張をイスラエル人以外の一体誰がうけいれるのだろう。 

 

自称独立国の独立記念日 ⑴

   第二のクリミアか?

   沿ドニエストルの25周年

 

 

■ロシアがクリミアを編入したのは「クリミアもロシアも共に望んでいた」との事だが、クリミアが属していた当時のウクライナに対して突発的で強引な国境線の変更をした事は国際社会が承認するはずも無い。同じようにロシアへの編入要望を持つ国、ロシアが編入を目論んでいる国が欧州には更に三カ国存在する。現ジョージアから独立した南オセチアとアブハジア。そしてモルドバから独立した沿ドニエストルだ。南オセチアやアブハジアとは違い、ロシアと国境は接してない。編入の可能性はあるのか?2015年9月2日、彼らの25周年独立記念日に立ち合った。

 

■「来年の独立記念日は25周年記念とう節目なので盛大なセレモニーになるだろう」。筆者は昨年訪れた際に、何人もの人からそのような話を聞かされた。「ロシアへの編入を90%以上の国民が望んでいるのに(‘90年に2度。‘96年に1度の住民投票の結果)独立記念日を盛大に祝ったら、ロシアへの編入アピールが薄れてしまうのではないか?」「それとも、『欧米化へ舵を切ったモルドバ本国とは完全に手を切っている』という意味でのアピールなのか?」「果ては、何かの政治ゲームなのか?」この1年間、そんな事を考えながらこの日を待った。

 

■首都ティラスポリに入ったのは8月30日。メインストリートである“10月25日通り”に立って驚いた。沿ドニエストル国旗とロシア国旗が車道、舗道、公園にも、あらゆる所に並んではためいている。まるで沿ドニエストルのロシア編入が決定したかの様だ。軒を並べる商店のショーウインドウには独立二五周年記念のポスターや各種イベントのプログラムが貼ってある。ほとんどのティラスポリ市民が街に繰り出している。また、彼らを警備する警官や武装兵士もかなりの数だが表情が明るい。

 

■ロシアへの編入を要望して、モルドバから独立宣言したのが‘90年9月2日。その日から25年目の朝7時、10月25日通りには独自の軍隊が整列。イェルゲニー・ヴァシリェビチ大統領が戦没犠牲者の慰霊碑に献花。軍楽隊のファンファーレの後、大統領演説。号令で約千人もの兵士達が一斉に「ウラー」と雄叫びを繰り返しながら一糸乱れぬ軍靴の音を響かせ行進。旧ソ連時代の兵器、武器を大量に保有する。戦車、装甲車、ロケット砲等が轟音を響かせ、排ガスをまきあげパレードした。

 

■軍事パレードが落ち着いた後の10月25日通りは若者達の独壇場だ。特設ステージでは何人ものミュージシャンによるジョイントコンサート。中心街では大道芸人などの余興でロシアからの若者も招待されていたようだ。ドニエストル河畔の緑地帯や住宅街の中庭など、所狭しとテーブルが並べられ、国が全てのホテルやレストランに号令をかけ、パーティーを開かせているかのようだった。相当額の資金をつぎ込んでいるのは想像に容易いが、25年という歴史。唯一の精神的支柱は独立記念日そのものなのだろう。

 

■ロシア帝政時代、南西部の国境はドニエストル川であった。この川を境に支配地域である事を示す為、東岸にロシア系住民を住まわせたのが、そもそもの沿ドニエストルである。「連邦が崩壊したから独歩して行けというものでもあるまい。我々は元々ロシア人だ。ロシアに帰属して当然だ」という意味でのモルドバからの対立、独立だ。

沿ドニエストルの25年の中で興味深いのは、自治政府樹立〜独立戦争〜停戦〜現在に至る過程の中で、民族名や宗教名が利用されなかった事だ。かつてのボスニアやコソボのような憎悪は見受けられない。民族主義を掲げての独立とは全く逆方向の意味での対立、独立だったのだ。しかし、その独立は国際承認されていない。いわゆる“自称独立国”なのだ。国際的に承認される展望は無に等しい。ロシアに編入出来てもカリーニングラードの様な“飛び地”でしかない(「でしかない」とは、モスクワとティラスポリを結ぶ国際列車は一日二本あるが、敵対するウクライナを通過しなければならないという意味)。しばらくはロシア影響下での自称独立国であり続けるのだろう。

 

■しかし、小国のままではなさそうだ。

ソ連15共和国の中のモルダビア共和時代には電力供給量90%を誇る重要工業地帯だった。それを持って独立した。また“シェリフ”というグループ企業(ショッピングモール、ガソリンスタンド、スポーツスタジアム等全国的に展開)の躍進も目覚ましいし、Kvintという酒造会社はコニャック、ワイン等で世界的に有名だ。そして盟友ロシアの援助。彼らの出資により道路整備、高層マンション新築、ショッピングモール建設など急ピッチで進んでいる。幾つかの扉の向こうには高い可能性が潜在するのだ。彼らはその扉を開ける鍵を見つけられるか否かだろう。「私達の国は日本とは関わりが薄いけど、その国の貴方がこの記念日に来てくれたのを私達は誇りに思わなければならない。私達は本来からのロシア人。ここでは歴史的な侵略戦争は無かった。だから今後もロシアであって当然と思っているのです」。中心街の舗道で手製民芸品を売っていた芸術家のユリア・マリコヴァさんの言葉が印象的だった。

 

 

 

トランスニストリア戦争

 

 1991年8月、モルダビア社会主義共和国がソ連崩壊と共にモルドバ共和国として独立した際には、無血での国家分離を果たし欧米式改革へ舵を切った。しかしそのモルドバ国内一部地域、ドニエストル川とウクライナ国境に挟まれた “沿ドニエストル”という地域だけは歴史的、文化的背景の違いを持っていたため、その動きに即反応、帰属意識が覚醒。自治政府樹立~独立戦争を経て停戦にこぎ着けたが、国際社会から国家承認されぬままこの2015年9月2日、25回目の独立記念日を迎えた。  

 

 

■無血独立と流血独立と

 

 1990年代と言えば、欧州では国境線が消えようとしていた。ソ連では国境線が現れようとしていた頃だ。しかしそれは国対国の国境問題では済まされなかった。

 ミハイル・ゴルバチョフ氏がソ連共産党書記長に就任して間もなく出版した“ペレストロイカ(田中直毅訳、講談社刊)”という著書の中で「大西洋からウラル山脈までが一つのヨーロッパ」と書いていた。まさに、そこで、それが、繰り広げられたのだった。しかも「民族主義の覚醒」とか「欧州の火薬庫」など“うねり”のようなものを付け加える必要のある状況で、正解の無い問題、終わりの無い話のようでもあった。

 結果的に国家分離するための戦争。国家統合するための戦争。無血での国家分離などが繰り返されながら現在に至っている。

 

 

  • ■ ドニエストル川

 

 では、その体制のあり方をめぐっての対立 =独立した自国の向かう先が受け入れられず、本来属していた盟友(当時はソ連、現在はロシア)へ回帰するための独立=とは?その背景を考えた時、モルドバ共和国内東部に分水嶺のように存在したドニエストル川が与えた影響は大きい。この川を境に西側と東側では歴史、文化の流れがかなり違う。

 ドニエストル川は歴史的には一八世紀、ロシア帝国の南西部の国境線であった。ロシア帝国としては川を境に支配地域である事を示すためにも、この東岸一帯にロシア系民族を移住させた。沿ドニエストルの始まりである。

 

 沿ドニエストルと言う国名の由来は、この川が流れていたからこそこの国が創立されたと言っても過言でない事から、ロシア語で「プリー・ドニエストロフスカヤ(川の前)」、英語で「トランス・ドニエストリア」となった。

「沿ドニエストル」とは日本語表記である。

 確かに支配地域や国名が変わる度に言葉、文字といった文化の強要はあった。しかし民族別分布の比率は変わらなかった事も幸いし、

周辺大国の思惑に蹂躙され互いが血を流し合い、領土を奪い合った経緯はないが故、また旧ユーゴスラビアや旧チェコ・スロバキアのように第一次世界大戦の結果として生まれた人口国家でもないが故、民族主義の覚醒とは逆方向をもたらしたのだ。

 

 

  • ■ トランスニストリア戦争

 

 燻りだしたのはソ連末期1989年に入ってからだ。ペレストロイカ本来の目的であった自由化、独立化に帰属意識、民族主義という解釈を持ち込む事が昂揚してゆく。

 西岸では最高会議でモルドバ語、ラテン文字の採用を決定。ルーマニアとの国境一部を解放。かつて属していたルーマニアとの併合論も再燃した。

 そんな動きに危惧した東岸は、分離独立を目指した自治政府を樹立した。西岸より経済的に優れていたからだ。

 翌 ’90年6月、西岸はソ連からの主権回復を宣言。そして東岸に警官隊を投入。

 対する東岸は同年9月、2度の住民投票を経てソ連の一員である事を貫く如く“トランス ドニェストリア・モルダビア ソビエト社会主義共和国”の名でモルダビアから分離独立宣言。自衛隊も創立した。

 ついにその時が来た。'91年8月、西岸はモルドバ共和国としてソ連から正式独立。11月にはトランスニストリアの実質大統領イーゴリー・スミルノフを逮捕。両者の最初の衝突となる。

 '92年年明け早々、モルドバは国防省を創設。ルーマニア支援による三万人の軍隊を保有する。

 一方、トランスニストリアも臨態勢をとる。自衛隊(8000人)はロシア第14軍(14000人)に支援され、更にロシア、ウクライナからの志願兵(6000人以上)も加わった。

 モルドバは5月2日、国連に加盟。同日、トランスニストリアへ軍事行動を開始。北部都市ドゥバッサーリを攻撃し首都ティラスポリに迫ろうとした。紛争が全面戦争に変った。

 

 同年7月21日、エリツィン・ロシア大統領と、スネグル・モルドバ大統領の間で停戦協定が締結されロシア、モルドバ、トランスニストリア合同軍による停戦監視団(JCC、Joint Control Commission)も展開する事になった。難民発生こそ少数だったものの、死者は兵士、民間人合わせて約千五百人にのぼった。しかしトランスニストリア軍はドニエストル川を超え、モルドバ地方都市ベンデルも支配した。これによりトランスニストリアの首都ティラスポリに直結するドニエストル川に架かる二本の橋をも守れた。モルドバ軍がベンデルを奪回する気配も無く、この戦争に実質勝利したのは “独立国トランスニストリア”だった。ソ連時代の兵器の備蓄、ロシアの支援もさることながら、ベンデルを支配出来たのは勝因だろう。当然の如く、現在でもこの橋のトランスニストリア側には規模は縮小したものの(戦車1輌、兵士3人)、先の平和維持軍JCCが停戦監視を担っている。

 

 

  • ■ 旧ソ連、現ソ連

 

 国際社会からは独裁体制と言われている。事実関係の裏付けは無いが、幾つもの情報として政府幹部数人によるソ連時代に備蓄した大量の兵器の密輸出。国内に潜伏するモルドバ人マフィアによる人身売買のシステム化等だ。戦争に勝利しても売りさばく程の量を備蓄。また、モルドバ本国での人身売買システムはユニセフの報告にもあるとおりだ。その売られた子供は、なんと日本にまで到達しているという事例がある。

 街を歩けばソ連時代の文化、様式が色濃く残っている。国旗は赤地に鎌と槌マークが入り、通貨はルーブル。官公庁前や学校、病院前にはレーニン像がそびえ立つ。彼らの身分証明書の表紙には“CCCP”などとロシア語での刻印。外国人の滞在は二四時間以内。滞在延長申請正規ルートはあるものの、筆者は関係所轄をタライ回しにされ、タクシー代をいくら使った事か・・・。

 特に印象的だったのは出入国を繰り返す度

、どこのホテルでも「ここから国境まで車で**分ですから、貴方は##時にチェックアウトしなければなりません」と厳しく言い付けるフロント係の姿だった。

 

 自由化の流れを感じるのは“シェリフ”というグループ企業の存在だ。特に商業、流通分野には目を見張るものがある。市中心街から郊外まで大型スーパーや複合商業施設を何店舗も展開させ、成功している。古くからの青空市場と競合(?)しながら食料品には事欠かず、これにはソ連時代の面影は全く無い。

これも2011年の選挙による政権交代と、政治、経済、軍事をロシアが支援している結果だろう。

 しかしながら若者を全くと言っていい程、見かけなかった。だから、流行の音楽が全くと言っていい程、聞こえてこなかった。市街地から住宅街まで。平日から週末まで。早朝から深夜まで・・・。そう、やはりこの国でも第一次産業は“出稼ぎ”との事だ。実際、筆者が滞在延長申請でタライ回しにされていた時、とある窓口が若者でごった返していたのに遭遇した。パスポート取得や出国申請に明け暮れていたのだ。

 確かに物質的レベルの変化というものは、すぐに見て取れる。しかし、人々の内面に潜む固定観念などは、一朝一夕にして変わるものではない。現地で特に憤慨こそしなかったものの、それはつまり、人対人。つまるところ“外国人慣れ”してないのだ。頼み事をする時、尋ね事をする時、そしてカネを払う時。「めんどうくせぇ奴だ!」とでも言いたげな冷徹な表情は感じ取れる。そんな“現ソ連”を目の当たりにした。

 

 

  • ■ 自称独立国から新ソ連へ

 

 市民と話をしていて不思議に思うのが「私はトランスニストリア人だ」と答える者はほとんどおらず、「ロシア人だ」「ウクライナ人だ」が圧倒的であるという事。さらに問う。

「ソ連にノスタルジーでもあるのか?」すると「ノスタルジーだと?ソ連が必要なんだ!」と。

 独立戦争時の軍事支援から停戦交渉、戦後復興支援までソ連時代の盟友ロシアの影響が絶大だ。だが、そのロシアでさえ国家承認していない。それでもロシアに寄り頼むのか?

独立国としてのアイデンティティーが足りないのか?そんな未承認国家のまま、2015年9月2日で26年目に突入した。今までに国家承認したのはアブハジア、ナゴルノカラバフのみ。しかし、この二国も未承認国家である。

それでも何かの可能性は感じるし、意義はあるだろう。

 実現性は低いがすぐに思いつくオプションとして・・・。

 

⑴ロシアによるトランスニストリア併合論

 

 国際的に承認される展望は無く、ロシア影響下での自称独立国ならば、いっそロシアに併合して貰い、第二の飛び地(カリーニングラード化)となる方法を国民投票にかけるという動向がある。実際、首都ティラスポリ~モスクワ間直通列車が1日2本、ほぼ満席で走っており先に書いた通りロシアとの結びつきは強く、飛び地は不可能ではないだろう。

 

⑵新ソ連、或は第二のCIS構想

 

 2006年6月14日、アブハジア、南オセチア、そしてトランスニストリアの未承認国家3国で「民主主義と民族の権利のための共同体」の設立を宣言した。レーニン思想にこだわり続けるのであれば、このような国家形態もあり得るかもしれないし、その共同体を拡大させる事も可能だろう。しかし、未承認国家の共同体としては革命的な構想であっても、7年経った現在でも大きな動きは見聞き出来ない。新ソ連、或は第二のCISに成り得るかどうか?

 

 旧ソ連15共和国の中のモルダビア共和国時代には電力供給量90%を誇る重要工業地帯だった。それを持って独立し、シェリフグループの躍進で商業発展も目覚ましい。小国らしからぬ潜在能力は幾つかの扉を持つ。果たして“トランスニストリア人”は、どの扉を開けるのか。その鍵を見つけられるのか。

 

 

自称独立国の独立記念日  ⑵

〜 ナゴルノ=カラバフの25周年 〜

 

自称独立国にとっての独立記念日がどのようなものなのか・・・についての取材を進めている私は、独立宣言から25年を迎えたナゴルノ=カラバフの最大都市ステパナケルトで2016年9月2日、彼らの独立記念日に立ち会った。

国名の正式名称は “ ナゴルノ=カラバフ共和国 ”と“アルツァフ共和国 ”の2種類で通用している。しかし国際的に未承認国家の為、日本のメディアも、

「アゼルバイジャンから独立を主張しているナゴルノ=カラバフ自治州(朝日新聞)」。

「ナゴルノ=カラバフ共和国を自称するアルメニア系住民側(毎日新聞)」。

「アルメニア系住民が実効支配するアゼルバイジャン領のナゴルノ=カラバフ自治州(読売新聞)」。

という表現をしている。

 

アルメニアの首都エレバンから6時間以上(上下左右前後に揺さぶられながら)山深きステパナケルトに入る。メインストリートであるアザタマルティクネリ通りをはじめ、広場、ロータリー、には独立記念日を祝うポスター、横断幕が掲げられている。同じデザインのTシャツや缶バッジ等が学生達には配布されていた。家々の軒先にも大小の国旗がはためく。そのスローガンも「’91年の独立宣言から25年目」「もはや、独立以外の選択肢はない!」。昨年取材したトランスニストリアの25周年独立記念日で最大都市ティラスポリでも同じ光景が見られた。未承認国家であるがゆえ、独立記念日こそが精神的支柱なのだろう。しかし「独立記念日」とはいえ、ウィキペディアによれば「共和国の日」と載っている。老若男女に、

“годовщина независимости ?”と問えば当然“да ! ”と返ってくる。

滞在初日から“自称や未承認”が垣間見えた。そんなことを考えながら、独立記念日を待った。

 

9月2日 

午前10:30

大統領宮殿前、ルネッサンス広場。菊やユリ等、白い花束を手にした市民、兵役中の若者までが続々と集まる。学生等が長さ50mはあろうかと思われる巨大国旗を道路目一杯広げ、横断幕や国旗を幾つも掲げた所に政府高官や職業軍人が勢揃い。「出発!」の合図と共に戦没者慰霊塔まで約3kmの行進が始まる。

 

午前11:00

ステパナケルト南西部、戦没者慰霊塔広場。整列した近衛連隊前に政府高官らが到着し勢揃い。パラついてきた雨の中、行列の市民も続々と到着。軍楽隊のファンファーレが響き渡る中、バコー・サハキャン大統領が登場、スピーチの後、献花。政府高官、市民と整然と続く。1万人位集まっただろうか、これほどの盛大な献花式を見たことがない。しかも降りしきる雨の中を、である。単なる儀礼的な行事とはとても思えない。祖国のために生を捧げた者を偲ぶという事の意味を、考えさせられた。

 

午後2:00

外務省向い、青少年文化会館前広場。雨天中止とされていた、アルツァフ伝統文化継承に取り組む若者達のアトラクションは晴れ間が広がった為、予定通り開催されると聞きつけ、タクシーを飛ばした。注目度の高い行事だったらしく、大勢の市民や地元アルツァフTVのクルーでごった返していた。

民族楽器の演奏、舞踏、手工芸品の製作実演等、私には珍しいものばかりで写真を撮ることすら忘れさせた。特に目を奪われたのが民族衣装を現代的ドレスにアレンジしたファッション・ショーだった。「あれはコーカサスの衣装ですか?」と、私のとぼけた質問に答えた年配女性は「何言ってんのよアンタ!アルツァフの伝統衣装よ!」憮然とした表情と態度に面喰らってしまった。アレンジしたとはいえ「様式美はしっかりと守ってる」と言いたかったのだろう。いつの日か、世界文化遺産登録を絡めた方向性から国家承認へ・・・無理過ぎるにも程がある・・・か。

 

午後10:00

大統領宮殿前、ルネッサンス広場。まるで、全ステパナケルト市民が繰り出したかのような賑わいだ。周辺にあるレストランやホテルのバーも、いつもの倍以上の数のテーブルを舗道にまで並べ大繁盛だ。特設ステージではコンサートが行われている。誰からともなく巡ってきた振る舞い酒に皆、宴たけなわだ。そんな光景を見ながら情報交換していたアルツァフTVの記者と私のところに若い男女グループが近寄り、明瞭簡潔な英語でナゴルノ=カラバフを語ってくれた。

「カラバフにあるアルメニア正教会最古の修道院は5世紀初頭にまでさかのぼるのよ。何処かの誰かが『カラバフは歴史的にアゼルバイジャンに帰属する』などと言っているようだけど、なんてナンセンスなお伽話だこと!」「紛争が凍結したと思われているけど、違う!交渉が凍結されているんだ!」

街の至る所に掲げられていた横断幕「もはや独立以外の選択肢は無い!」とは、この事を表現しているのではないか。「共和国の日」とワンクッション置いて表現したのもアゼルバイジャンやアルメニア本国の神経を逆撫でしないよう、気配りしたためだったのではないか。今後の“切り込みどころのとっかかり”を見つけたような気がした。

言葉と文字と宗教。政治的優先意識。民族的純粋な領域。領土的野心。文化の強要・・・。

いろいろな思いが頭の中で巡り「ビンテージものだよ」と御相伴にあずかったアルメニャックからすっかり醒めた。

 

あの時に始まったのかもしれない。

1975年8月、ヘルシンキ。CSCE欧州安保協力会議。

2度の世界大戦を経験した欧州諸国が戦争防止の安全措置として、この冷戦のさなか東西両陣営35ヶ国が集まった。

ここで採択された「ヘルシンキ最終文書」は、

  • 武力による国境変更を認めない。

  • 民族自決の尊重。

  • 人間と情報の交流拡大。

をうたった。

しかし、これは冷戦構造に対応した枠組みであり、冷戦後の民族間紛争には全く効果が無い。特に①と②は「あちらを立てれば、こちらが立たず」の関係にある。

それは“氏”にとってどうだったのだろうか。ソ連共産党書記長に就任したばかりのミハイル・ゴルバチョフ氏。著書“ペレストロイカ(講談社)”のくだりにある「大西洋からウラル山脈までが、一つのヨーロッパ」という一節に込められていたのかもしれない。

この2つがあったから後に急成長した国がある。

この2つがあったから後に紛争が始まった国がある。

 

明後日にはこの山深いカラバフの地を離れなければならない。滞在中、様々な分野からアルツァフ文化継承にプライドを持って活動する若者達に何度も出会った。彼等の有意義な活動が何かに繋がってほしいと願う。

夜明け前、アザタマルティクネリ通り。家路につく人々の波に身を任せながら、そんな事を考えていた。

 

ありがとうございます!メッセージを送信しました。

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